『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』(My Big Fat Greek Wedding)
監督 ジョエル・ズウィック


 二年前にブリジット・ジョーンズの日記を興味深く観ながら、身も蓋もない有様と同意しかねる結末に気が滅入った僕も、この作品には好感を持った。ハイミスの欝屈を思いがけない棚ぼた的な恋によって解消する物語を滑稽味とともに描いた作品であることにおいて、似たような両作品における決定的な違いは、他者に対する思いやりの心情の有無であったような気がする。ことにブリジットとトゥーラ(ニア・ヴァルダロス)の母親の違いは、あまりに大きい。「大げさなギリシャ式婚礼」とのタイトルが示す、豊満で過剰なラテン的大家族主義を“首”で支える母親の愛情豊かな包容力は、実に圧倒的だ。「頭は男のつもりだろうけど、頭にどっち向かせるかは、それを支える首たる女の思いのままよ」と宣う自負の揺るぎなさには、苦笑しつつも、実際そのとおりなのだから、文句の付けようがない。

 それにしても、暑苦しいまでの大家族主義ではある。物静かで禁欲的な菜食主義よりも、何かにつけ子羊の丸焼きだと騒ぐ開放的な享楽主義のほうが好ましいと思う僕でさえも、いささか辟易とするところがあったのだから、トゥーラにとってはうんざりだったことは、想像に難くない。しかし、高校教師イアン・ミラー(ジョン・コーベット)がトゥーラに惹かれたのは、「面白くて、美しくて、楽しいから」だったから、彼女が無意識のうちに身につけているラテンの気質が功を奏していたわけだ。ギリシャ原理主義のような父親ゆえに疎んじていた価値観を見直す視線をイアンから得られて、トゥーラのなかで変化してきた部分もあったことだろう。この作品は、彼女を演じた主演女優にまつわる、実話に材を得た物語なのだそうだ。

 人が自分自身の持てるものに対して見直しの視線を得るためには、他者の存在は必要不可欠で、しかも、それは信頼できる他者でなければならない。そのような他者との出会いと交わりを得たときに、人にまつわる状況は大きく変化するものだ。それは、状況自体が変化する以上に、自身と状況の有様が違って見えてくるということで変化してくる度合いのほうが大きいような気がする。トゥーラにとってイアンの存在はそういうものであっただろうし、イアンにとって、トゥーラとその家族との出会いは、彼の人生観や家族観を大きく変えるものであったのに違いない。でなければ、このような物語が実話としてはなかなか起こり得ないように思われる。だが、逆に言えば、それだからこそ、実に幸運な巡り合わせではあったかもしれないけれども、理想の王子様が白馬に乗ってトゥーラのためにだけ都合よく現れたということではないのだ。そこのところが『ブリジット・ジョーンズの日記』での胡散臭げな「ありのままでいい」というのとは違って、トゥーラがイアンに掛け替えのないものを与えていたと思える説得力になっているような気がする。

 それにしても、「観ると“しあわせ”になれる!」と大きな文字で書いてあったこの映画のチラシの隣に『釣りバカ日誌14』のチラシが置いてあって、これまた大きな文字で「観れば誰もが元気になれる!」と書いてあるのを見ると、なんだか今の日本の冴えない状況が期せずして浮彫りになっているようで、思わず苦笑してしまった。



参照テクスト:掲示板談義の編集採録
by ヤマ

'03. 8. 3. 松竹ピカデリー1



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