『シカゴ』をめぐって
(TAOさん)
Across 211th Street」:(Tiさん)
DAY FOR NIGHT」:(映画館主・Fさん)
This Side of Paradise」:(junkさん)
ヤマ(管理人)



 
書き込みNo.3559から(2003/06/10)

(TAOさん)
 ヤマさん、こんにちは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAOさん。

(TAOさん)
 ヤマさんは『シカゴ』に<けれん>を感じたんですね。
 私も同じように<退廃>を感じましたー。見終わった後、虚しいんですよ。

ヤマ(管理人)
 そうそう。そっちがよかったな。日誌には「あまり愉快でない」とか「残念」と書いたけど、観後感の虚しさにも言及しときゃよかった(笑)。
 で、ある種の虚しさが残るという点では、昔の『オール・ザット・ジャズ』にも通じるじゃないかってことにはなるんですよね。ところが「虚しさ」の質が違ってて、『シカゴ』は今いちってことになったんですけど、僕の場合(笑)。

(TAOさん)
 ちょっぴりシニカルで、しかもそれだけ、な感じがねえ。
 期待が大きかっただけに、キモチのもっていきようもなくて、ああもういちど『ムーラン・ルージュ』が見たいなと、思ったことでした。あっちは暑苦しいほどに直球ですからね。けれんでは負けないけど。

ヤマ(管理人)
 『ムーラン・ルージュ』は、けれんでは『シカゴ』以上でしょうね(笑)。でも、あの猥雑きわまりなさのなかでの“ピュア”だから引き立つし、気持ちよくなれたような気がします。
 でも、そういう気持ちのよさというものとボブ・フォッシーは無縁でしょうからねー(笑)。

(TAOさん)
 ちょうどWOWOWで放映したので見て溜飲をおろしましたよ。でも、バズ・ラーマンのインタビューまで見てしまい、とにかく語る語る、あまりのくどさにちょっと辟易。映画はいいけど、本人はちょっとパスでした(笑)。

ヤマ(管理人)
 これ、ちょっと今、僕に対しては禁句なんですけど(笑)。
 ナーバスになってるらしいですよ、饒舌ってことには(笑)。

(Tiさん)
 ヤマさん、こんにちは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Tiさん。

(Tiさん)
 うーん、では、タップダンスを踊りながら『シカゴ』の弁護を…(笑)。
 これってショービジネスについて語ってるショーなわけですから、この作品の嘲りの視線って、誰よりもまず作り手自身に向けられてたんじゃないかなって思うんですよね。

ヤマ(管理人)
 ショーマンたち自身に向けたあざけりの視線ですか? ほほぅ、これは思いも掛けませんでした。
 僕は、むしろ居直り的肯定感のほうを感じて、そこに虚ろさを覚えたものだから、『オール・ザット・ジャズ』と「虚しさ」の質が違うって書いたのでした。

(Tiさん)
 安全地帯から冷たく見下すようなスタンスで撮っているようには、僕は感じなかったです。

ヤマ(管理人)
 冷たく見下すどころか、なんでもありを肯定してた感じ(笑)。
 でも、逆にそれだからこそ、Tiさんは揶揄を感じ取ったんでしょうね。とすれば、揶揄の対象は自ずとショービジネスにどっぷりと浸かってる作り手たちってことにはなるわけですよね。

(Tiさん)
 で、そんな愚かさも醜さもバカらしさもみーんな認めた上で、それでもこの世界で胸を張って生きていくんだっていう決意表明なんだなあと受け取って、大感動しちゃったんですよー。
 ロキシーやヴェルマにではなく、レニー・ゼルウィガーやキャサリン・ゼタ=ジョーンズやロブ・マーシャルに感情移入したというか。

ヤマ(管理人)
 おぉ〜! 登場人物よりもむしろ作り手たちにコミットするっての、映画の病膏肓に入って、深みにはまっている証かも(笑)。

(TAOさん)
 ヤマさん、Tiさん、こんにちは。あ、Tiさんは、はじめましてですね。
 「愚かさも醜さもバカらしさもみーんな認めた上での決意表明」って聞くと、ははあ、なるほどねえと思います。

ヤマ(管理人)
 あれは、居直りや、居直り〜!(笑)

(TAOさん)
 いや、じつをいうと、私もゼタ=ジョーンズに感動して、胸を熱くする瞬間がありました。

ヤマ(管理人)
 乳滑りのスライディング? もしかして(笑)。

(TAOさん)
 でも、哀しいかな、それが持続しないんですよ。
 いや、登場人物の誰かに感情移入したりできないような、異化効果を確信的につくってるでしょう。

ヤマ(管理人)
 これ、確信犯だったのかな?

(TAOさん)
 でも、ショービジネス自体に向けての異化効果であれば、わかりますね。

ヤマ(管理人)
 そうなんですよ。
 というか、これしか了解できる肯定的な回答はないように思いますよね(笑)。
 僕自身は、そういうふうには感じることができなかったんだけど、この線なら、「あり」だろうとは思えます。

(TAOさん)
 でもね、「ちょっぴりシニカルで、しかもそれだけ」って言っても、安全地帯から冷たく見下ろしてるなんてちっとも思ってませんよ。むしろ馴れ合いっぽい感じを、退廃と言ってるわけで。

ヤマ(管理人)
 むむ、居直り的肯定感なんちゅうより、馴れ合いのほうが遥かによさげだな(苦笑)。

(TAOさん)
 たぶん私は、古き良きショービジネスへの幻想を持っていて、そういうものがないんなら、べつにもう見なくてもいいよ、なーんて思っているので、それでもやっていくんだっていう決意表明にも、勝手にやればーと冷たいのかもしれないです。

ヤマ(管理人)
 TAO節ですやん(笑)。

(TAOさん)
 よく考えるとボブ・フォッシーも苦手だったんでした。すみません、『シカゴ』を語る資格ぜんぜんなしですねー。

(Tiさん)
 えーっと、すみません、「安全地帯から…」発言は外してましたね。
 ということは、ヤマさんもTAOさん(はじめまして〜)も、あの世界のダメさ加減を、作り手が我がこととして肯定している点に退廃や馴れ合いを感じられた…という解釈でよろしいのでしょうか。

ヤマ(管理人)
 僕としてはそうですね。そこがあまり愉快でなかったとこです。

(Tiさん)
 僕は、さんざん自虐ネタをやったあげくに、それを突き抜けて自己肯定に行き着いた…というふうに受け取ったんですけど、やっぱり「どうせ俺たちはダメ人間さ〜へらへらへら」っていうのだったら、共感できなかっただろうと思います。

ヤマ(管理人)
 最後に行き着いた境地のように感じられたら、虚しさは湧いてこなかったのではないかと思うのですが、いかんせん僕には、そんな格闘ぶりを感じるよりは、もっとお安い気がしたもんでした。あの弁護士がいけなかったのかも(笑)。
 「どうせ俺たちはダメ人間さ〜」どころか、ダメとも思ってないからダメなんですよ、僕的には。

(TAOさん)
 やっぱり私も↑ここみたいです。(「ダメとも思ってないからダメなんですよ」)

ヤマ(管理人)
 おおー、そうですか、TAOさん〜。

(TAOさん)
 同じくレネ・ゼルウィガーの『ベティ・サイズモア』くらいに、無意識でピュアな妄想なら、いっそ許せちゃうんですが、『シカゴ』のは、ちょっと生々しいんですよねえ。

ヤマ(管理人)
 『ベティ・サイズモア』ですか〜、ゼルウィガーって実は、僕はこの作品だけなんですよ、魅力的だったの(苦笑)。『ブリジット・ジョーンズ』でも『母の眠り』でも、うまいなぁ〜とは思うんですけど、あんまり惹かれない(たは)。

(TAOさん)
 たとえば、松田聖子独占インタビューを面白がって見た後に、ちょっとぐったりして後悔したときみたいな。。。

ヤマ(管理人)
 松田聖子ですか〜、わはは、なるほど今やキワモノの代名詞だ(喝采)。

(TAOさん)
 なにより、キワモノを面白がろうとした自分に、退廃を感じて、ああいかんと思うわけです。へんなたとえですが(笑)

ヤマ(管理人)
 屈折してるなー(笑)。そうやってバランスとってるんでしょ。なんか分かるなー、御同輩(笑)。

(Tiさん)
 でも、この映画では自分たちを笑いのめすにしても居直るにしても、情け容赦なく徹底的にやってる気がするんですよね。常に全力投球だから、甘えや自己憐憫が入ってきちゃう余地がなくて、なんだか体育会系の爽やかさみたいなのを感じたんですよー(笑)。

ヤマ(管理人)
 やっぱ、この辺が分かれ目だったんだろうなー。

(映画館主・Fさん)
 え〜と、こちらでは「シカゴ」も話題になってましたが、アレについては歌がイマイチとか踊りがどうとか、そういう意見はありますけども、主人公たちの人間性云々を言うのは酷かと。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Fさん。
 僕は結局のところ、キャサリンの骨太のいかつい体格やレニーの貧弱バストにも文句を垂れてましたが(苦笑)、「人間性云々を言うのは酷かと」というのは、確かにそうですね。少々ヤボです。
 でも、だからこそ、評価軸としての善し悪しで言っているわけではなくて、「あまり愉快ではない」との感想を綴っているつもりではあるんですけどね。ま、野暮なことには変わりはないんですが(苦笑)。
 でも、素直な感想として、やっぱそうだったもんで、それは酷でもヤボでも仕方あるまいかと(笑)。

(映画館主・Fさん)
 マァでも、それほどシリアスな映画じゃないだろうと。

ヤマ(管理人)
 それはそうですよね。
 だから、あんなのは許せないとかいうつもりは毛頭ありません。

(映画館主・Fさん)
 もちろんかつてのミュージカルほど脳天気ではないんですけどね。

(junkさん)
 あ、今更ながら『シカゴ』ネタ。
 私はロキシーとヴェルマの描き方はあれでよかったと思いますよ。
 ってゆーのも、レニー“貧弱"ロキシーって、1920年代の「フラッパー」の典型として描かれてると思ってまして。ふわふわしてて、流行の音楽やお洋服が好きで、傑出したものは何もないのに物欲や名誉欲が異常に強い女の子。フィッツジェラルドの小説にも出てきそうだと思いません?
 で、逆にヴェルマは当時の「ヴァンプ」の典型みたいなんですよね。妙に不健康なメイクやファッションなのに健康的な肉体。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、junkさん。  フラッパーっていうのは、それ自体について、僕はあんまりイメージがないんですよ(とほ)。  ヴェルマ=ヴァンプっていうのは、図星って感じですけどね。

(junkさん)
 ・・・で、私は1920年代文化が大好き。作品に立ち込めるその時代の「気配」を再現しようとする態度が、とっても気に入ったわけです。るるん。

ヤマ(管理人)
 なるほどね〜。
by ヤマ(編集採録)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―