『アフガン・アルファベット』(Afghan Alphabet)
監督 モフセン・マフマルバフ


 参加費無料の地域ブロック人権問題研修会「子どもと人権〜お話と映画のつどい〜」という催しで観たのだが、行政の行う研修事業でいわゆる啓発映画とは異なる映画がこういう形で上映されるのは、非常に珍しい。しかも、事もあろうにマフマルバフの作品だから、いわゆる啓発映画的な分かりやすさとは程遠い説明不足とイメージの喚起力の強さが際立っていて、研修会での上映作品としては飛び切り新鮮だった。
 でも、マフマルバル作品として観ると近年の充実度からすれば、多少物足りなく感じるところもあって、日誌を綴るつもりがなかったのだけれど、翌日になって主催者の方から興味深いメールを貰った。「あの映画は、マフマルバフ作品の二つの大きな特質を抑制した作品ではなかったかと思います。ひとつは、フィクショナリティであり、もう一つは、ユーモアです。…マフマルバフ自身がそれを禁じ手としていたようで…本領を発揮できなかったように思うのですが、…」との言に触発され、あれこれと思いが湧いてきた。
 先頃開催された「高知のオフシアター・ベストテン2002」で堂々第3位に選出された『カンダハール』が“芸術性・娯楽性・ヤマっ気・象徴性、いずれもが豊か”といった言葉で支持されたことを思うと、この作品は46分の小品とは言え、かつて観光局の広報映画として製作されたはずのオムニバス映画『キシュ島の物語』の第三話「ドア」で、とんでもなく不思議でシュールなイメージを展開し、およそ観光PR映画らしからぬ鮮やかさをみせた手腕からすれば、あまりにもドキュメンタリーらしい肌ざわりを剛直に押し通していたから、そのあたりが“二つの大きな特質の抑制”と感じられたのだろう。だが、それを“禁じ手”というふうに感じさせたものは、何だったのだろうか。
 タリバン政権のもと、長らく公教育が廃止され、ひどい識字率の低下を招いていたとされるアフガン人のイラン国内の難民キャンプでの識字教育の現場を映し出し、言葉と文字を手に入れ、知ることを求める子供の根源的とも言える意欲のエネルギーを活写するとともに、亡き父親の教えであるが故に課せられた桎梏からなかなか解放されない少女の姿を通じて、“知ること”“教えられること”の意味と力を考えさせる作品だったと思う。だからこそ、同じ難民でも身分証の有無で、教育を受ける機会が得られない差別の不当性が際立つのだろう。この単純かつ明白な主張において、ある種の造形的な手際のよさを感じさせることに対して、マフマルバフに躊躇させる部分というのは、確かにあったのかもしれないと、メールを貰ってから思い及んだ。
 『カンダハール』で、あの惨状に対して映像美とユーモアを以て語ることで、焼痍弾を花火に例えた三好達治(だったと思うが) の詩人魂について学生時分の文芸サークルで話題になったことを想起させられるとともに、ある種の感慨を抱かされた身としては多少なりとも物足りなく感じたこの作品に、かのマフマルバフにさえも躊躇させたという観方をすると、逆に凄みとも言うべきものが宿っていたのかもしれないという気がしてきた。そこがメールの主に“禁じ手”というふうな受け止め方を促したのかもしれない。
 だが、僕の印象にとりわけ深いのは、「アー・ベー、アー・ベー」という言葉が、子供たちによる斉唱で何度も連呼されていたことだ。しかもその場面が、長くはないこの作品のなかで、繰り返し登場していたように思う。それが「水」を意味する言葉であることやアルファベットで言えば、ちょうど最初の二文字を繋いだ言葉であることが、ともにある種の根源性を想起させて意味深長なのだが、それを連呼する場面を執拗に繰り返すことで、まさしく教育への“渇望”のイメージを強調していたような気がする。そして、ラスト・ショットは水を浴びせ掛けられる少女の顔のストップ・モーションなのだ。そう考えると、フィクショナリティとまでは言えなくても、やはりマフマルバルらしい技巧性なり作り込みというのは窺えるような気がする。
 僕にとっては、もしかすると、禁じ手と作り込みの間を巡ってのこのあたりの中途半端さというものが、どこか釈然としないというか、すっきりしないものを残したのかもしれない。
 それにしても、こういうメールを寄せてくれる行政の職員が研修会の企画担当者であるのは、とても心強いことだ。この映画をよもや行政の実施する人権問題研修会で観ることができるとは思わなかった。

by ヤマ

'03. 1.25. 土佐市社会福祉センター3Fホール



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