『若者たち』
監督 森川 時久


 生きるということについて胸に迫ってくるもののある、インパクトの強い映画である。こんなふうに熱っぽく語りかけてくるところには、60年代ならではのものがある。実際の画面のなかは、語るなどという生易しいものではない。驚くことに全編通じて会話の多くが叫び合い、怒鳴り合いであり、そこには、如実に現在とは違ったスタイルのコミュニケーションが現われている。今や、叫び合ったり、怒鳴り合ったりするコミュニケーション・スタイルを若者は、持っていない。社会の管理化や機械化は、人にそういう形でのエネルギーの凝縮・発散を許さない状況に至っており、それへの適応のなかでいつの間にか失ってしまったのである。表面的な生活レベルは、改善されているものの、状況における問題の本質は、何ら改善されていない。しかし、その表面的な部分によって飼い馴らされ、同時に、抵抗するにはあまりに巨大過ぎてアパシーに陥らざるを得なくなっている。過去の若者の戦いがことごとく挫折した、その積み重ねもそれに影響していよう。かくして人々は、この映画の科白にもある「安易に生きる」ほうを選ぶようになり、「打算で生きる」ようになっている。しかもそこに挫折感や敗北感を抱かなくても済むように、むしろ積極的にそのことを合理化してしまっている。そんな現在においてこのような作品に接すると、まさに己が生き方を問われる思いがする。

 「sein」の世界で生きるのか、「sollen」の世界で生きるのか。生きるとは実に、「sollen」の世界を失わずに「sein」の世界から逃げ出さないことである。「sollen」の失われつつある今、現在よりも生活することそれ自体が遥かに困難であった時代に、自覚するとしないとに関わらず、そういう生き方をしている姿を突きつけられることは、一つの脅威ですらある。もっとも生活すること自体が困難だったから、余裕がなかったから、却って問題に直面しやすく、あのようにあれたのかもしれない。社会・貧困・労働・差別・ヒューマニズム・・・それら大きな問題を包括的に孕んで、強いメッセージを送り込んでくる映画である。役者陣も見事で、殊に長男太郎を演ずる田中邦衛は素晴らしい。小川真由美に結婚を断わられた後、松山省二に大学受験を放棄するなと迫るくだりの迫力などは、絶品である。

 それにしても、登場人物それぞれの抱えているものが単に個人のパーソナリティや個人的事情として映らずに、社会的に昇華されていて、しかも説得力があるのは大したものである。社会的なものですら、個人の問題としてしか映らないようにしか描けない昨今の映画とは、雲泥の差である。このスケールの大きさが五人兄弟とその周辺の人物の日常生活を描くなかから浮び上がってくるところが凄い。
by ヤマ

'84.10.14. RKCホール



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