『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs Of New York)
監督 マーティン・スコセッシ


 2時間40分が、えらく長く感じられた。これだけの長尺なのに、そう数多くもない主要人物たちの人間ドラマとして、ある種の濃密さが感じられないのは、むしろ驚きだ。アムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)の亡き父たる神父(リーアム・ニーソン) とブッチャー・ビル(ダニエル・デイ=ルイス) との確執を1846年の抗争場面だけで済ましていたり、ビルがのし上がりアムステルダムが臥薪嘗胆を期していた十五年間のエピソードのいくつかを回想という形でさえも描かなかったことなどが、それに大きく影響しているような気がする。また、ジェニー(キャメロン・ディアス)を介した、アムステルダムとビルの心理的せめぎ合いも、その前提ともなるジェニーへのそれぞれの思いや葛藤がほとんど描かれていないに等しい状態だ。群像劇ゆえに特定の人物に焦点を当てるわけではないというような群像劇でもないから、敢えて言うなら、人物を描くよりもニューヨークというトポスの出自を著したかったのかもしれない。しかし、それは人物劇を後景に追いやることで浮かび上がってくるというものでもないはずなのだ。巨額の製作費が掛かっていることが容易に偲ばれるような画面の厚みが、伴わない内実に対して、いささかの忍びなさを誘発してくる。
 ドラマ性をそこまで犠牲にしてスコセッシが延々と描いていたのは何だったのかと考えてみると、もしかすると善くも悪くも、闘争と力こそが基本原理で、富と貧困をその帰結なり出発点とする人生観なり価値観を社会のファンダメンタルとしているアメリカという国の肌ざわりだったのかもしれないと思った。単純な善悪を超えたところでの力の行使による実力主義と言えば聞こえはいいが、要は“ならず者の国”というわけだ。神父さえもが“兎”組を率いて暴力闘争を辞さず、移民同士でありながらネイティヴのどうので新参と既得権の間での覇権争いをし、勝利をもって正当化する原理は、なにもギャングたちだけのものではないような気がする。ネイティヴ・アメリカンを駆逐していった建国の歴史自体に潜んでいるものではないだろうか。そういう野蛮さや下品さが、骨の髄まで泌み渡っている感覚というものを、例えば『ゴッド・ファーザー』的な“美学”を一切抜いた形で、ちんぴらっぽく造形した世界が『ギャング・オブ・ニューヨーク』という作品だという気がする。だから、観ていてちっとも高揚感がないし、かっこよくもなく、美しくもない。知性や洗練とも遠いところにある感じだ。けれども、だからこそ、どこかアメリカという国の本質的な部分を掬い取っているような気がする。
 それにしても、アメリカのギャングものと言えばイタリアン・マフィアが決まり事のようだったのに、この作品のみならず、先頃観たばかりの『ロード・トゥ・パーディション』もアイルランド移民であったが、何かアメリカのほうで事情でもあるのだろうか。


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0212-2gony.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_12_30_4.html
推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/gangsofnewyork.html
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviewk.html#gangsofnewyork
by ヤマ

'02.12.27. 松竹ピカデリー3



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