『オルランド』(Orlando)
監督 サリー・ポッター


  観終えて、既に二か月以上になるので、細部の記憶は、怪しいのだが、映画体験としては、非常に個性的で映画らしい映画を観たという記憶が残っている。
 映画らしい映画というのは、換言すれば、映画でなければ出来ない表現をしているということでもある。原作の展開をどこまで脚本でそぎ落しているのかは、ヴァージニア・ウルフの小説に接したことがないので判からないが、恐らく相当に大胆な省略が加えられているに違いない。そうでなくてもかなり奇抜なこの物語が、そのような大胆な省略を加えられても、映画としては、物語の展開ということを含めていささかの支障もないのは、映画という表現が、映像というイメージを繋いでいって、より大きなイメージ世界を想像させるというイマジネーション・メディアだからである。
 そうは言っても、語りとしての映像部分を大胆に省略すればするほど、それでもなおかつ物語として成立させるためには、個々の映像がよほど豊かなイメージをはらんでいなければならない。これは、詩の作業とも似ていて、言葉を削り込むことで残り、選ばれた言葉は、捨てられた言葉に少なくとも拮抗していなければならない。だから、削り込めば、削り込むほど、残された言葉の重みは増してくるのである。
 この作品を観ると、この脚本でオルランドの映画を物語として成立させ得たのは、奇跡的だと思われるほどに、削られたものと残されたものとが限界点でバランスを保っているという印象を受ける。言い換えれば、このサリー・ポッター監督自身の手による脚本を他の監督の手で映画にしたら、ギリギリのバランスというのは為し得なくて、とても観られたものではなくなったのだろうなという感じを抱かせるのである。それゆえに、この作品は、サリー・ポッターという、小説「オルランド」と深いところで交わった個人の存在感というものが、抜き去りがたいものとして強い印象を残す。言葉を換えれば、とても個性的な映画として成功しているということになる。
 しかし、この作品は、タイトな映画の作業を果たしたうえで、映画として成立させて観る人を感心させるという、これ観よがし的なところで作られているのでは、決してない。物語の成立の向こうで、ポッター監督が個々のイメージを繋いでいくことによって現出させた、より大きなイメージの世界とは、ヴァージニア・ウルフと手を取りあってサリー・ポッターが高らかに謳い上げるフェミニズムの世界であった。しかも、いわゆるフェミニズムがこれまで与えてきた生真面目さと窮屈さの印象とは対照的に、のびやかで、しなやかで、かろやかな、近頃はあちらこちらで散見されたりもしてきたニュー・ウェーブ・フェミニズムのなかでも、最もナチュラルで広がりをもてる印象のフェミニズムであったという気がする。
by ヤマ

'94. 6.23. 県民文化ホール・グリーン



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