『ぼくの神さま』(Edges Of The Lord)
監督 ユレク・ボガエヴィッチ


 父の死後、復活の奇跡を願って、キリストの自己犠牲を真似ようとしていた幼いトロ(リアム・ヘス)の瞳にうたれた。慕っていたユダヤ人少年のロメック(ハーレイ・ジョエル・オスメント)や兄ヴラデック(リチャード・バーネル)が、トロの心の傷みを紛らせるイエスごっことして付き合ってくれていた始めのうちは無邪気に澄んだ瞳に過ぎなかったのだが、最後まで一人で真剣に一途に願っているうちに、深い哀しみと静謐さを湛えた深遠さに彩られるようになっていく。キリスト教的自己犠牲といったものに感覚的に共鳴できる部分を信仰としては持っていない僕が観ても、そのような精神の浄化と深まり具合が起こり得るのが人間の魂なのだということがしみじみと伝わってくる。それと同時に、村人の生命をもてあそび、神父(ウィレム・デフォー) を愚弄するナチス将校や隣家の父子の見せる相貌もまた紛れもなく人間の魂なのだ。
 この作品が心に沁み入るのは、迫害されるユダヤ人を匿った父グニチオもトロも隣家の父子も、同等に元々からの特別な人とは描かれずに、普通の人々が極限状況に置かれたなかで、平時なら格別問われ試されることなく過ぎたであろう魂が、昇華と荒みという正反対の方向に先鋭化されていった姿として描かれているように感じられたからだと思う。隣家の父親にしたって、グニチオの義侠心や美しい妻を妬むような男ではあっても、隙あらば、だまし討ちにして殺害し、金を掠め盗ろうとするほどに積極的な悪人ではなかったろうという気がするし、ユダヤ人を移送する夜行列車から決死の脱出を試みた難民を待ち構え、金品を強奪する息子にしても同じだろう。グニチオにしても、ナチスの侵攻という状況に立ち至らなかったなら、敢えてあそこまで気概を鍛え上げたりはしなかったろうし、父の死がなければ、トロの行為も生まれない。
 しかし、それをもって戦争のせいだとして片付けることには違和感がある。戦争というのは、あくまでも人の魂を剥き出しにする極限状況であって、平時の普通の人々としての生活のなかで隠れてはいても、剥き出され、先鋭化すれば、かような醜悪さも崇高さも発現し得る根というものを人は持っているのだ。そして、自分の根がそのいずれであるのかは、誰も知らずにいるのだろう。十四年前に『炎628』を観たときに似たような感慨を持ったことがあるが、あの作品には、正反対の方向に先鋭化した人の魂の対照性というものがなかったために、自分のなかに生じた極度の脱力感と疲労感がやりきれなかったが、この作品では、むしろ人間の果たし得る奇跡のようなものが印象として刻み込まれる。
 人の魂の醜悪さと崇高さの狭間で、目撃者ないしは証人として、その対照を際立たせていたのが、ロメック少年だった。同胞たるユダヤ人の隠し持つ金品をナチス将校に命じられて暴き立てる姿には、まだいずれの方向にも先鋭化していく前の苦悩と試練が見受けられる。原題の「神の端っこ」というのは、キリスト教徒を装わなければならないユダヤ教徒であるロメック少年に、キリスト教徒の儀式に参列することへのとまどいをほぐすために神父が使った言葉だったが、作品タイトルとしては僕にはむしろ、人の魂の根っこが問われるような極限状況というものを指しているように感じられた。神の恩寵が届き行き渡らない端っこで、人々が苛酷な試練と直面しており、そこで起こった事々、人間の姿というような意味合いではなかろうか。

推薦テクスト:「Happy ?」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200212300000/
by ヤマ

'02. 3.29. 札幌シアターキノ



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