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『トレーニング・デイ』(Training Day) | |||||
監督 アントニー・フュークワー | |||||
腐敗の果てに逮捕される日本の官僚たちを想定するまでもなく、有能なほどに自らの力を過信しやすく、真面目なほどに無邪気な理想や使命感に燃えやすいがゆえに、一筋縄ではいかない現実を前にして日々理想とは程遠いところでの仕事しか果たせないでいるうちに覚える挫折感と無力感は人一倍ダメージが大きくて、目標を見失い、ある種の開き直りとともに、むしろ自虐的とも言えるような積極的な腐敗への道を辿らせるのかもしれない。だが、有能であるだけに一旦腐敗への道を辿り始めると、半端に終わらないとも言える。そのときに彼らが決まってするのが、何らかの形での正当化であろう。そのうち最も無様なものは、およそその正当性を承服しがたい「みんなやってることだ」とか特権意識への転換とかだが、さすがにアロンソ(デンゼル・ワシントン)は、そんな卑しい人物ではなく“必要悪”という最も強力で危険な正当化によって深みに嵌まっていったことが窺える。しかもタチが悪いのは、こういう腐敗は常に仲間を増殖させることで露見を防ごうとするとともに、ただひたすら腐敗の蜜だけを貪ろうとするわけではないことだ。それだけに、最も強力で危険な正当化は、単なる誘惑とは比べようもないほどに現実的に効力を発揮する。 この作品が興味深いのは、腐敗の罠に嵌められかけながらも、それと対決し、からくも勝ち残る正義のヒーローたる新参者を描くという、これまで数多ある作品と基本的なパターンは同じでも、“必要悪”という最も強力で危険な正当化の、映画作品としての提起の仕方だ。 多くの作品で最もよく観られるのは、腐敗者の言い訳にすぎない形で使われるものだろう。逆に本当に必要悪として綺麗事では対処できない現実に立ち向かう者がヒロイックに描かれることもよくある。この作品のように、かなりの程度、必要悪を説得力をもって提示しながら、結局それは正当化に過ぎなかったという言わば、これまでの映画のパターンから言えば、ルール違反のような結末になる展開というのは珍しい。また、多くの場合、腐敗者は最初から露悪的には描かれずに、最後に露見するとしたもので、最初から露悪的に描かれる人物は、大概悪人ではないという約束事からも外れている。まして、この作品では、麻薬捜査官としての適格性を試される試験日という設定なのだから、必要悪の表出自体も単純な露出とは言えない設定になっているうえに、およそこれまで主だった出演作品で悪役を演じているのを観たことがないデンゼル・ワシントンが演じているだけに余計に何かあるのでは、という気にさせられる。 それらは作り手の狙ったところでもあるのだろうが、どうもフェアでないというか、素直に感心できなかった。つい最近観た『ブリジット・ジョーンズの日記』に感じた違和感にも通じるところがある。娯楽作品の王道からは、どうも外道作品に見えて、斬新な工夫と受け取れないのは、僕の感覚が時代遅れになっているのかもしれない。 そういう意味でも陥穽だらけの作品であるわけだが、映画の本筋としての腐敗の陥穽ということでは、物事を妙に善悪正邪の視点から眺める価値観というものが過信や無邪気な理想や使命感以上に、本質的な原因ではないかという気がしてならない。しょせん善悪などというものは、観方ひとつで変わってくるところが多い気がしてならない。それに比べると、美意識のほうが遥かに軸がぶれにくいような気がする。そういった点では、新米警官ジェイク(イーサン・ホーク)が罠に屈しなかった根底の部分に、モラリスティックな正義感や理想主義だけではなく、彼の美意識というものが大きく作用していると見えるように描いていたところには納得できるものがある。だからこそ、彼はアロンソと同じ轍は踏まないかもしれないと思わせてくれるのだろう。もちろん約束されたものでは、けっしてないのだが…。 結局のところ“たかだか、されど”の自己認識のなかで、身を汚す箍は外さずに地道にたゆまず続けていくことのできる者の果たすもののほうが、現実的には大きな意味を持っているような気がする。 | |||||
by ヤマ '01.11. 8. 松竹ピカデリー3 | |||||
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