『みんなのいえ』
監督 三谷 幸喜


 着想的には伊丹十三監督作品を思わせるような題材と骨格を備えながら、蘊蓄を語る厭味がないのは、脚本・監督の三谷氏自身が投影された直介(田中直樹)の賢しらぶらないキャラクターが効いてるからだと思う。体験や取材によって得た情報から構築した話の面白さ以上に、キャラクター造形による面白さを重視しているところが成功の鍵を握っていたように感じるのは、『ラヂオの時間』のときと同じだ。筋立て自体には、かなりの不自然とあざとさが散見されるのに、それらがコメディ的な過剰さとしての許容範囲内にからくも収まっていて、絶妙のバランス加減だ。前作と同様に、言葉を頼りに世界を作り上げる人から見た、目に見える形の技術や職人に対する憧れと敬意が窺われて、好もしい。同時に今回は、言葉を弄する者の気概もまた現れていて、いかにも頼りなげな直介が何度か大事なところで、力のある言葉を発する。

 ことに新進気鋭のインテリア・デザイナー柳沢(唐沢寿明)に向かって熱弁をふるう、職業人として仕事に向かう際のアーティスティックな願望と妥協について誠実な仕事とは何かを問い掛ける言葉には、作り手の思いと見識が篭もっていて素敵だ。表現者としてのわがままを通すのではなく、収入手段と割り切るのでもないようなしんどさの伴う妥協点の模索にたゆまず取り組むことは、どんな職業においても安直に理想と現実といった形で人の口の端にものぼることだけに、すべての職業に通じる職業倫理の根幹としての説得力を持っている。

 さらに普遍化するならば、人の生き方として、世間の常識とか道徳といった形で固定化されたものに形式的に従うのではなく、すべてはまさしくこの内なる倫理でもって対峙することが最も必要で美しいことなのに、一番失われてしまったことなのかもしれないという思いにまで広がるもので、大いに共感を覚えた。例えば、道徳的とされることに形式的に従うことが倫理的ではなかったり、不道徳とされることについてモラリスティックに臨むことがあり得るというのが人の倫理の真実なのに、マニュアル主義のもとに加速した形式化は、そういうものを徹底的に壊していったような気がする。手段はマニュアル化されるべきだが、手段の選択を支える理念はマニュアル化できるものではなく、ときとして手段のマニュアル化は、理念の空洞化をもたらすことに対してあまりにも無警戒ではなかったのかという気がする。

 この内なる倫理を育むものが直介の妻民子(八木亜希子)の父で大工の棟梁の長一郎(田中邦衛)の言う“心意気”で、「神様と手前しか知らねぇから、いいんじゃねぇか」という感性こそが内なる倫理を備えさせ、磨いていくのだろう。まさしく今の日本で一番失われてしまったものだという気がする。

 こういうふうなことをコメディの形を装って、賢しらぶって伝えてこられると、いささか辟易とするのだが、この作品にはそういうところがないのがいい。ただ、三谷幸喜氏には、賢しらぶりはなくとも、良い子ぶりっ子というところが多少なくもない。

 それにしても、家を建てるというのは、大変なことだと俄におっかなくなった。僕も二度ほど建直しを試みかけたことがあったものの、実現には到ってない。そのことにほっとしたりする部分があって、自嘲気味の笑いが込み上がってきた。巧みな作品だ。


推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
 http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex
     /2001micinemaindex.html#anchor000622

推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200106.htm#みんなのいえ

推薦テクスト:「シネマの孤独」より
https://cinemanokodoku.com/2019/09/26/minna/
by ヤマ

'01. 7. 7. 東 宝 3



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