美術館秋の定期上映会「劇映画だけが映画じゃない」

    “映画という体験[これが映画だ]”


『カメラを持った男』29   ジガ・ヴェルトフ 監督
『DOG・STAR・MAN-完全版-』61~64 スタン・ブラッケージ 監督
『映画史(全8章)』88~98 ジャン=リュック・ゴダール 監督
  第1部 第1章[すべての歴史] 第2章[ただ一つの歴史]
      第3章[映画だけが] 第4章[命がけの美]
  第2部 第5章[絶対の貨幣] 第6章[新たな波]
      第7章[宇宙のコントロール] 第8章[徴(しるし) は至る所に]
   美術館上映会の今世紀最後となるプログラムは、奇しくも映画という表現についての問題意識を鮮明に持つ作家が20世紀の前・中・後期にそれぞれ残した作品の一挙上映という形となった。ロシア、アメリカ、ヨーロッパと地域的にも、また年代的にも総括的で世紀末を締め括るにふさわしい好企画だ。そういう意味では、同じ上映会の名のもとに中途半端に平日一日でゴダールの『中国女』と『Made in U.S.A.』をプログラミングしたりしないほうが、企画的には鮮やかなものになったのではないかという気がする。
 ジガ・ヴェルトフもスタン・ブラッケージもかねてより気掛かりだった監督ながら、これまで作品を観る機会に恵まれないでいたので、今世紀中に観ることができ、嬉しく思った。二つの作品は、ともに一時間を超える全編サイレント。前者がカメラを担いでロシアの街を移動する男のモノクロ映画なら、後者は斧を担いで雪山を登る男のカラー作品と、期せずして絶妙の対照を見せていた。それにしても、七十年たとうが、四十年たとうが、いまだに問題意識の鮮烈さが見事に伝わってくるからたいしたものだ。

 ソ連のジガ・ヴェルトフの今世紀初めの作品には、手にしたカメラ・アイでもって、あまねく世界を見渡すぞ、とでもいうべき作り手の意志と欲望を感じた。加えて、ある種の全能感すら窺えたところが新鮮だった。実験的でありながら、思いつき的な着想重視ではなく、非常に理論的な指向性をもっている。それでいて変に冷静ではなくて、世紀末の現在では感じられることがほとんどなくなってきたとも言える、映像を操る技術への初々しい興奮が素直に表れているところに新鮮さを感じたのだと思う。
 まばたきとブラインドの開閉をモンタージュしたり、カメラの絞りの動きを瞳に重ねていたりした映像や冒頭がまず映画を見せる場としての劇場とそこに集う人々の入場から始まったことなどが印象深い。それにしても、自動ではフィルムを巻き上げられない当時の撮影機で、いったいどうやって撮影したのだろうと思われるショットがたくさんあって驚いた。

 スタン・ブラッケージの作品は、今世紀半ばのアメリカン・アンダーグラウンド映画で、日本では三十年前に税関で一部輸入ストップされたという幻の作品だ。PRELUDE から始まるPART1~4までの五部構成で、序章としてスタイルと手法の提示がされ、PART1では主に雪山を登る男をモチーフに主題の展開を果たし、PART2では赤ん坊、PART3では女、と主となるモチーフを変えながらも、生命と自然の営みと存在という一貫した主題のもとに、総括的なPART4に至る。
 特に目を惹いたのは、序章とPART3だった。序章で提示されたスタイルは、被写体の意味を写し取ることを禁則して、あくまで映し出されたときの光と色を効果的なものとするフォルムと化するというものだ。被写体から実体物としての意味をはぎ取り、すべてのものを視覚的効果を演出する素材へと向かわせる作り手の意志を窺わせていた。あくまで物を写しながら、物として写し取ることを禁則している感覚をひとつのスタイルとしてこれほど鮮やかに印象づけられたのは初めてだ。PART3では、何と言っても、女性器の内蔵感覚的なぬめり感が漂っていたところが鮮烈だった。ただ対象をあからさまに写し取るだけでは、けっして表現できない感覚で、見事だった。
 生命のエネルギーをある種のスケール感でもって伝えるうえで、この作品で太陽のコロナのイメージが果たしている役割には、非常に大きいものがある。その一方で、死のイメージは、ほとんど全くと言っていいほど表現されることがなかった。それは、ブラッケージに対する僕の先入観としてあったものからは、実に意外とも思えることだった。

 ジャン=リュック・ゴダールの作品は、今世紀末にカナル・プリュスが1作ずつ八週間に渡って放映して話題になったという作品のビデオをエレクトロ方式によるプロジェクターでのスクリーン上映をおこなったものだった。一部を再変換したフィルム方式で上映したことに対して、ゴダール自身がこだわったという上映方式ひとつ取ってみても、映画という表現についての問題意識を鮮明に持つ作家の一人として、ゴダールの面目躍如たるものがある。実際に観てみて、ビデオ作品とは思えないほどの映像の鮮明さと美しさに驚いた。聞くところによると、東京での上映以上に鮮やかだったらしい。映写機では、数多の施設の後塵を拝する高知県立美術館が、初めて映像関係で最高水準を果たしたものかもしれないものに立ち会えて幸いだった。
 呆れ返るほどにたくさんの映画人名や作品名が静止画・動画・文字・音声でふんだんにランダムに登場する。それらのモンタージュ・センスやコラージュ・センスは、さすがはゴダールと言うしかない見事さだ。しかし、語り口もまた、やはりゴダールと言うしかない相変わらずのもので、僕には生理的とも言えるほどの反発がある。
 まずもって、あらゆる言葉が、彼得意の引用と同じく、すべて断片でしかない。充実した意味を結ばないことをもってフレーズの反復や象徴的な言葉の抽出の多用といった詩的表出を装い、韜晦し続ける知的スノビズムへの嫌悪を禁じ得ないのが正直なところである。引用と断片に終始しない肉声を聞きたいものだと常々思うのだが、それを野暮でおしゃれでないことだと思わせて、巧妙に逃れている狡さが気に入らない。
 次に、徹頭徹尾とも言える自分中心主義と厚かましいほどの押し付けがましさ。第3章の批評家セルジュ・ダネーとの対話のなかで、今世紀のちょうど半ばに活躍した作家として20世紀の前半も後半も見渡せるという点で『映画史』を語るにふさわしいと期待が寄せられていたが、70年代以降の映画については、ほとんど何も語られない。現存する映画作家は、結局のところ彼自身を除いて誰も取り上げられてなかったような気がする。その一方で、ゴダールについては、彼自身や映画作品が登場引用されるだけでなく、ジャンの文字と響きは、うんざりするほど反復されたし、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の文字も繰り返された。
 そういったなかで比較的肉声として感じられる見解が示されていたのが、第5章の戦後イタリア映画を讃えた一節と映画で宇宙のコントロールを果たし得たのは、ヒッチコックとドライヤーだけだと語る第7章であった。だからこそ、このふたつだけがフィルムに再変換されてカンヌ映画祭で上映されたのだろう。
 それにしても、映画にまつわる膨大な引用に対して、思っていた以上に覚えのあるものが多くて、我ながら驚いた。何のかんの言いながら、自分もけっこう映画に嵌まってしまってるんだなぁと嬉しいような、情けないような気分になった。
 そして、映画以上に覚えのあるものに出会う率が高かったのが、映画史という割にはえらく熱心に引用されていた、絵画のほうだった。それは多分、絵画の引用が映画よりも一般的認知度の高いものばかりの抽出だったからだろう。
 また、クールベの描いた『世界の起源』が引用されてからの後の章では、各章のはじめの部分で判で押したように、パターンの違うセックス・フィルムが必ず引用されていたのも妙に目立った。挿入した性器のあからさまな抽送さえ無修正のまま映し出されていた。『DOG・STAR・MAN』のPART3が三十年前に税関で輸入ストップされたことに比べ、隔世の感がある。



公式サイト高知県立美術館

『DOG・STAR・MAN-完全版-』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0311-2brak.html
by ヤマ

'00. 11.18. 県立美術館ホール



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