『スコア』(The Score)
監督 フランク・オズ


 裸も殺しもドンパチもなく、役者の火花の散らし合いで魅せるしぶい味わいの作品だ。ロバート・デ・ニーロがこれほど本格的な主演をしているのは久しぶりだという気がしたし、真っ向から気合い勝負をしているエドワード・ノートンがそのまま役柄のうえでのニックとジャックに重なってなかなか観応えがあった。目当ての税関の下調べと手引きのために掃除夫として潜入したジャックが軽度の脳性麻痺障害を装うというアイデアは、ひょっとしたらエドワード・ノートンが自分から持ち出したものではなかったのかと思わせるほどの気合いが篭もっていた。デ・ニーロとの競演を思いっきり楽しんでいたのではなかろうか。相互作用かもしれないが、デ・ニーロも往年を思わせる充実感に漲っていた。
 演出的には前半の計画実行に移すまでの展開にいくぶん緊張感が不足しているような気がしないでもなく、また、マーロン・ブランドを生かし切れていないようにも思ったが、今や紛れもなく中年の域にある僕としては、やすやすと世代交代を許さないストーリーが気に入った。
 プロとして、甘さを排し、出し抜かれないための油断のなさと仕事上必要とする相手に対する信頼というものの加減の具合こそが「慎重さ」であり、ニック(ロバート・デ・ニーロ)もジャック(エドワード・ノートン)もそれを極めてこそのプロだとの心得があるように見受けられた。だが、何を見極めることがむずかしいと言って、人間にまさるものはない。年季に鍛え上げられた才気と切れ味を試すかのような剥きだしの才気のもたらす最も大きな差異は、出し抜くことによって自分が出し抜かれないよう才気を磨くことの限界をどこまで肌で知るかというところにある。裏稼業の世界であっても、ニックは自分の身を守るための備えは怠りなくするが、才気で出し抜くことを自らに厳禁しているように見えた。善良さによる誠実とはひと味異なる厳しい誠実さであり、それがマックス(マーロン・ブランド) ほかの泥棒仲間に対してだけではなく、ガールフレンドのダイアン(アンジェラ・バセット)に対しても発揮されているように見えた。
 ところで、親切な同僚の老掃除夫に犯行を目撃されたジャックが彼を殺さなかったことについては、疑義を呈する者がいるかもしれない。だが、事前にニックの台詞によって説明されているとおり、全うに仕事を済ませて退勤しない以上、真っ先に疑いの目を向けられるのは、ジャックであり、職を得て潜入しているのだから面は割れており、目撃者の老掃除夫を殺害しても結局口封じには繋がらない。その判別ができないほどに頭が回らない男では話にならないのだから、ジャックが殺人を犯すと人物造形が壊れてしまう。殺害しなかったことをもってジャックの甘さと見誤ると、この作品は、一気に緊張感を欠いてしまうような気がした。
 最も興味深いのは、ジャックが最初からニックを出し抜くつもりだったか否かで、そのあたりは、けっこう微妙だ。なかなか信用されないことへの不満が、ニックに対する疑念を抱くことに繋がったように見えるところもある。決定的だったのは、盗みおおせたときに二人でマックスのところに秘宝を持っていくことにニックが同意しなかったことではなかろうか。ジャックのように頭の切れる若者にとって、年長者にいいように使われ、出し抜かれることは、自分がリスクを負うこと以上に屈辱的で耐え難いものだったのではあるまいか。そのことへの危惧と警戒が過ぎて、結果的には裏目に出てしまった。つくづくと何がむずかしいと言って、人物を見極めることほどにむずかしいものはないと思った。それはすなわち、自身の洞察力を信頼しきれないことの現れでもある。

by ヤマ

'01. 9.23. 松竹ピカデリー1



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