『三文役者』
監督 新藤 兼人


 これが明治生まれの齢九十歳を目前にした監督の作品だろうか。既に数多くの友人知己に先立たれているなかで、えにし深き故人を描いて、回顧的な懐かしみや残された者の悲哀など露とも感じさせず、今なお、マジカルな映画世界を展開して、観る者を驚かせる。なにしろ、十年も前に死んだ殿山泰司が甦り、五年も前に死んだ乙羽信子本人が目の前で語り掛けてくるのだ。
 吃驚するのは、泰司を演じた竹中直人の演技。もはや声帯模写や形態模写をも越えて、演じているという以上のものを感じさせる。特にその喋りは、あまりにも生き写しで、むしろ微妙に違うときに不自然さを感じさせるほどにそっくりだ。そのためにちょっと誇張され過ぎているとか、なまじそっくりであるがゆえに、多少違うときのわずかな違和感が必要以上に妙に気になるといった弊害をもたらさないでもないが、現存する竹中直人が '89年に死んだ殿山泰司の声で喋ることに '94年に死んだ乙羽信子が答える眩惑されるような世界が圧倒的だ。映画の冒頭を飾る『裸の島』に始まって、ふたりの登場する映画が何作品も引用されるのだが、かたや本人、かたや生き写しで、ほとんど違和感がなく、時空も彼岸も飛び越えたかのようだ。
 亡き泰司を語る今村監督や神山監督、堀川監督のドキュメントフィルムが挿入されたとき、もともとこの作品は、乙羽信子の生前に、泰司を偲ぶドキュメンタリーとして構想されていたのではないかと思った。そして、ドキュメンタリー映画として仕上げる前に、新藤監督が竹中直人の模写芸とたまたま出会って、それらのフィルムを生かせる形の劇映画への転換を思いつき、脚本化したのではないかという気がする。そういう脚本作りに少し時間が掛かって映画としての完成が今頃になったのではないだろうか。結果的に何とも不思議な映画世界ができあがった。
 そして、この映画自体の持つ不思議さが、いかにも殿山泰司その人の持つ存在の不可思議さに奇妙に符合していて面白い。不思議な人の側には、不思議な人がいるのが当たり前であるかのように、赤坂の側近こと妻キミエ(荻野目慶子) も鎌倉の本妻アサ子(吉田日出子) も実に不可思議な人たちだ。浮き世離れした人々の摩訶不思議な映画世界のなかで、映画という不思議な魔術に魅せられた殿山泰司の人生とタイちゃんという不思議な男に魅せられた女たちの人生がユーモラスにしみじみと浮かび上がってくる。
 そしてまた、その存在すらが奇跡のように思える人々の姿が、さらには近代映画協会の存在と歴史の特異性にもかぶさってくる構成になっているところなど、実にしたたかだ。こんな映画の脚本・監督をこの歳になって事もなげに軽妙に撮り上げてしまう新藤兼人は、既に怪物の域にあると思った。故人となった映画俳優に捧げられた供物とも言えるような作品は数あれど、これほどのものには滅多にお目に掛かれるものではないような気がする。こういう作品は、故人に捧げるといった思いだけに満ち満ちた発想から生まれるものではない。作り手が楽しみ、あくまでも自身のための自己表現に喜々として取り組んでいると見えるところに、その秘訣があるような気がした。
by ヤマ

'01. 5.30. 県立美術館ホール



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