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『トリコロール/青の愛』(Trois Couleurs BLEU) | |||||
監督 クシシュトフ・キェシロフスキ | |||||
映画という表現のある種の極みに至っている作品である。映像、音声、音楽、言葉などによって伝えてくるイメージのあまりの豊穣さに、観ている側の感性のキャパシティを越えて溢れ出るものをこぼすまいとする気持ちが無意識のうちに働くからなのか、得も言われない耽美的な緊張感とともに、全編を観終えた時には、手のひらが幾分汗ばんでいた。 漫然と観過すことのできるショットがおそらく只の一つもないと思われるような精緻で技巧に満ちたカットの積み重ねに目を奪われていくうちに、ぐんぐんと創り手の構築する感情世界に引き摺り込まれていく。例えば、序盤のほとんどホラー映画ばりのドギツイ音の入れ様とともに印象づけられる割れるガラスやドアのノックや音楽に観客がびくびくさせられる時、生の拠所であった最愛の存在を突然一挙に失って、生命力が稀薄になり、生きてることの不安や怯えに晒されてびくびくしている主人公ジュリーを観客もびくびくしながら観続けることになる。ホラー映画に描かれる不安や恐怖は、日常的なリアリティがないことを創り手も観客も承知のうえだから、それを楽しむことができるわけだが、ジュリーの体験している不安や怯えは、多くの観客にとって同じ経験をしたことはないけれども、自らの日常のなかでいつ起こらないとも限らないことであるだけに、音にびくびくしているうちに奇妙なリアリティとともにジュリーのびくびくしている姿に同調してきはじめることになる。そこに生れるのは、ジュリーの不安や怯えの描写を受け取って想像力で理解することではなく、ジュリーと共にびくびくするという感情体験なのである。 きめ細かい描写によって擬似体験として伝えるのではなく、擬似ではない生の体験として、事故によってもたらされた結果である精神状態の一部を観客自身のものとして引き出すというやり方は、ひとつの手法に過ぎないが、その背後にある考え方は、キェシロフスキ監督の表現というものに対する基本的なものだという気がする。 彼の演出は、解りにくいという声をしばしば耳にするが、そもそも提示するものを理解してもらうといった形でドラマを創っているのではなく、できるだけ説明を排除して固定的なものとはならない形にすることにより、観る側それぞれの生活体験のなかで最もリアリティのあるドラマを、観せていく過程で観る側に紡ぎ出させる企てとして映画を創っているのではなかろうか。観る側自身が紡ぎ出すものが観る側にとって最もリアリティがあるのは当然で、それを越えた普遍的で絶対的なリアリティなどあるはずがないということである。従って、ドラマの解釈は、非常に自由な形でされるべき作品だと言える。例えば、退院したジュリーがオリヴィエを呼び出し、一夜を共にするのは、後に描かれる石塀に握り拳を擦りつけて歩く行為と同じ様な自傷の衝動と観てもいいのだろうし、喪くしたものの記憶の呪縛から逃れるための踏ん切りと観ても、あるいは、耐え難い不安と怯えを紛らわすものとして束の間の救いを求めたものと観ても一向に差し支えなく、要するに観る側それぞれにとってジュリーがそうすることにおいてリアリティのあるいずれでもいいですよという可塑性を保った形でドラマが描かれているのである。 そのようにして観る側それぞれに自身のドラマを創造させるために、観る側からすれば、単に与えられたものとしてではなく、自らがより深く関与したものとして作品を自身の心象風景のなかに刻み込むことになるのである。しかし、そのような可塑性を保ちつつ、ドラマとして観る側を引きつけ続けるだけの演出や構成というものは、並大抵の創造力と技術では果たし得ない。しかも、ドラマを越えた部分では、例えば、『ふたりのベロニカ』に出てくるビー玉やこの作品でジュリーが唯一手放さなかった青いガラス玉のモビールなどとともに思い起こさせる、作家の眼の硬質な透明感、深い孤独の底にあるほのかな温みを慈しむ人間観、この世には唯一無二の絶対的存在はなくてこの世に存在するものは総て何らかの形で別な場所にも存在しているという世界観、(あなたが感じている孤独と同じ孤独を感じている人がきっとこの世にはいますよ、あなたは独りぼっちじゃないんですよという慰めの囁きがキェシロフスキの作品を観るといつも聞こえてくる気がしますよね。)といった作家の個性がきちんと伝わってくる。 それら作家の個性は、単に与えられたものとしてでなく、自身の心象風景に刻み込まれたドラマのなかで伝わってくる故に、この作品でジュリーが見せるTrois Couleursならぬ三つの涙や知られるはずもない亡き夫の未発表曲と同じ曲を吹くリコーダー吹きの男の笛の音に浸っているジュリーのたった一度しか出てこない安らかな表情などとともに、観る側の心に深く泌み渡ってくるのであろう。 | |||||
by ヤマ '95. 5.12. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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