『ヤンヤン 夏の想い出』(A One & A Two)
監督 エドワード・ヤン


 映画を観終えた後で、自分の心に最も響いてきた部分を自分の拙い言葉になんぞ置き換えられない、というか言葉にすることはできるのだろうが、そうはしたくないと思うような作品に出会うことがある。そういう映画として、僕がいつも真っ先に連想するのがキェシロフスキ監督の『ふたりのベロニカ』なのだが、この映画を観終えた後も、同じような感慨を抱いた。
 人の生の手触りや息遣いに満ち溢れた作品だ。それがどこかのシーンに凝縮されるようにして特に顕著に描かれるのではなく、あまりにも全編細部にわたって息づいているために、言葉にしようとすると、どこから手をつけていいやら判らなくなるという面もある。一家族の周辺の日常を描いていながら、それだけの豊穣さがあり、スケール感とさえ呼べるものが宿っていて、ため息が漏れる。それには、小学生のヤンヤンから天寿を全うしようとしている祖母ちゃんまで、ほぼ満遍ない各世代の人々にバランスよく視線を向けているということが大きく貢献しているが、そのこと以上に、人の生に向ける作り手の眼差し自体に細やかな大きさといったものが感じられるからだろう。
 そういうものを表層の背後に抱えた映像に浸りながら、僕は、結局は日常の大きな流れのなかに戻ってくるという人の生のささやかながらも生命感あふれる波立ちを鮮やかに掬い取っているように感じていたのだろう。隣家のリーリーを巡る錯綜した恋愛のもつれが波立ちに終わらずに、殺人事件にまで展開していったことに少し驚いたのだが、考えてみれば軸となっているヤンヤン一家から見れば、ティンティンが思春期に体験した波立ちの記憶と化していくことなのだ。
 しかし、その殺害シーンをTVゲームのような画面で表現したことには、少し違和感が残っている。殺人事件というものを言葉だけでなく、視覚的にも明示したかったのだろうが、リアルに描いて、回帰していく日常よりも過度に強い印象を残したくはなかったのだろうし、まだ幼いヤンヤンが事件を耳にしたときに、現実感を欠いていて、まるでゲームの一場面のようなイメージで受け取ったことの表現であるようにも解し得るということで採られた手法だったのではないかと思うものの、感じた違和感を払拭するには到らない。
 興味深かったのは、イッセー尾形の演じた太田という日本人のイメージだ。ちょうど昔の日本映画に登場したアメリカ人が、人物個人として描かれる以上に、ある種の憧れを体現する存在として、例えば交流分析(TA)に言うペアレントのイメージで登場していたのと同じようなものを感じたのだ。外国映画は無論のこと自国の作品でさえ、これほどに渋くかっこいい日本人像を見せてもらえることは、滅多にない。日本の流行が関心を集め、日本製品が高級ブランドで、日本のアイドルが人気を集めている台湾を見てると、何十年か前の日本とアメリカの関係に近いものを感じる。
 感銘を受けたのは、自分が映画作家であることに対して、作り手自身が感じている喜びや誇りの高さと映画という表現に対する信頼感や自負の強さだった。何事によらず、今時これほどまでに率直に自分の携わっている仕事に対する信頼感を誇らしげに喜びをもって語られて、いささかの反発も覚えることなく、素直に羨むことのできる厭味のなさを備えるのは、並大抵のことではない。ミケランジェロ・アントニオーニ監督が『愛のめぐりあい』の最後で、「映し出される映像の裏に、もっと真実に近い映像が潜み、その裏に更に真実に近い映像があって、更にまた謎にみちた絶対の真実が潜んでいるはずだが、それは誰にも見えない」という、映画として捉える映像の秘密と謎を示す言葉を残していた。彼自身は、その作品のなかでは、そういったものを充分には捉え得ていなかったように思うが、エドワード・ヤンは、この作品でそれを果たしていたような気がする。だからこそ、観ていて素直に羨み、いささかも厭味を覚えなかったのだろう。たいしたものだ。


推薦テクスト:「Ressurreccion del Angel」より
http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-1-4.htm

推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/yangroom.htm

推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/a-one%26a-two.html
by ヤマ

'01. 5.25. 県民文化ホール・グリーン



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