『リトル・ダンサー』(Billy Elliot)
監督 スティーヴン・ダルドリー


 父親役を演じたゲアリー・ルイスが見事で、いい表情を見せてくれるし、ストーリーも悪くない。ダンスを音楽やスポーツ、勉学に代えて、これまでに幾度となく映画にされ、数多くの秀作を残している類の物語だ。従って、そこには新鮮な問題提起やシャープな視線は宿りにくく、求められるのは、ある種の定番として安心して観られる心地好さだ。そういった点からは、既に序盤のうちからデリカシーを欠いた音楽の使い方が妙に気になっていたが、そのうち違和感が随所に散見されてきて、気持ちよく観ることができなかった。
 最も強い違和感は、作り手の視線が人物を描くことより場面を作ることに熱心なことだ。例えば、ビリー(ジェイミー・ベル)がオーディションでの自分のダンスに満足が得られず、不安と焦りに駆られて常ならぬ状態にあることを表現するのに、あのような粗暴さを見せることは、映画的には極めて判りやすいが、そもそもそういったことが身に馴染まなくて、ボクシングからバレエに転向したビリーのパーソナリティからして、釈然としないものが残り、納得の得られる描き方にはなっていないし、結果通知を待ち焦がれる一家に届いた手紙を先に開封せずに食卓に立てて、ビリーの帰宅を待っているシーンは絵にはなるけど、そういう形のデリカシーを備えた父親であれば、当初からビリーにあのような威圧の仕方をしたり、亡妻の遺品のピアノを叩き壊したりはしない気がする。前半の父親の抑圧がいかにも図式としてのみ存在したような違和感を生じさせる。踊りの力によって、父親がビリーを認めるようになり、尊重するようになったことを示すにしても、他にもっと自然に映る表現の仕方があっただろうし、固唾を飲んでビリーの開封を待つ場面の演出は、まるで「クイズ・ミリオネア」のみのもんたの焦らし方に似た嫌らしさがある。父親が初めてビリーの踊る姿を目にして息子の夢の実現のために並み並みならぬ覚悟と意志を固めたことを表現するにしても、あの父親にスト破りをさせるなら、それに見合うだけの万策尽きた追い込まれ方が描写としても必要だ。少なくとも、長男トニー(ジェイミー・ドラヴェン) から他にも方法はあるだろうと制止される状況でのスト破りでは茶番になってしまう。
 人には意外な側面や矛盾した心理と行動があるのは、自明のことだけれども、それでもなお、もしそういうことがあるとしたらこうだろうなというキャラクターイメージとしての統合感を欠いてしまうと、お話がお話のためのお話になってしまって、著しく感興を削ぐものだ。確かに人間は変化もしていくものだ。それとて、絵空の物語であれば尚のこと説得力を備えていなければ、感動には繋がらない。
 特別出演のアダム・クーパーの「白鳥の湖」が最後にチラリと登場するが、かいま見ただけで魅了された。もう少し見せて貰いたかったとの残念もあるが、映画への使い方としては気が利いていると思った。特に舞台袖からの出番待ちを背後から写し、準備の屈伸とともに白鳥をあしらったメイク顔へと繋いでいったカットは気に入っている。
by ヤマ

'01. 5.24. 高知東映



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