| |||||
『愛のめぐりあい』(Al Di La Delle Nuvole) | |||||
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ | |||||
齢八十三歳にしてこの若々しさはどうだろう。女性にとっての肉欲や性欲とは一体何なんだろうということへの疑念と探究心は、男性の多くにとって必ず覚えのある事柄だ。しかしながら、遂には見極めることのない永遠の謎と不可解さを前にして、多くの場合、女は男には解らないものなんだと諦めたり、探究し続けるエネルギーを失ったりして、自分の欲求の充足に対する関心に留まるようになる。そして、異性の生理へのみずみずしい関心を保てなくなってしまう。 ところが、アントニオーニ監督は、老齢と言っても何の不思議もない年齢にありながら、その疑念と探究心を失わないばかりか、若々しいみずみずしさでもって保ち続けている。だからこそ、イネス・サストルの裸身もソフィー・マルソーの肢体も眩しいほどに官能的でありながらも、粘っこい濃密さがなく、清々しい猥褻さが美しい。第一話でも第三話でも触れられる肌の香りや女の匂いについての会話のような生々しさがありながら、それが昇華されるのは、女性に向ける彼の眼差しが性欲だけではなくて、異性の生理に対する探究心というものを失っていないからである。その点では、アントニオーニ監督よりも老齢のマノエル・デ・オリヴェイラ監督も驚異的ではあるが、彼の求める官能性は、もう少し粘っこくて、清々しくはない。また、実年齢では彼らよりも遥かに若いのに、『魅せられて』のベルトルッチ監督が、五十代で既にかつての探究心を失い、若々しさとは正反対の老醜を漂わせていて、いささか情けなかったことを思い併せても、アントニオーニの若々しさが希有のものであることがわかる。 しかしながら、アントニオーニ監督の若々しさという点で、もっとも強烈だったのは、女性に向ける眼差し以上に、映画監督すなわち表現者としての問題意識と自覚である。「映し出される映像の裏に、もっと真実に近い映像が潜み、その裏に更に真実に近い映像があって、更にまた謎にみちた絶対の真実が潜んでいるはずだが、それは誰にも見えない」という主人公の最後の言葉は、まぎれもなくアントニオーニ監督が、キャメラは本質的にスキン・ディープ(表層)を捉えるものでしかなく、その捉えたスキン・ディープの背後に、真実あるいはより真実に近いイメージを潜ませることができるかどうかが、表現者としての映画監督に問われることだという自覚を持っていることを示している。 そして、映画の本質をキャメラに置き、スキン・ディープを捉えることに徹底してこだわる。映像が構図やキャメラの移動、ライティングを含めて、実に丹念に撮られるだけでなく、各エピソードの語り口においても、登場人物たちがその時その場で見せることのできる以上のものをなるべく語ろうとはしない。登場人物たちがどういった背景を持っており、どんな体験をしてきているのかを回想や作者全知的な形で再現したりはしないし、素朴な心情の吐露やあからさまな心理描写も極力排除して、努めてスキン・ディープを捉えることに徹している。 そのスタイルや手法が作品的にも成功していて、映像の裏に謎にみちた絶対の真実が潜むところまでいっているとは、必ずしも言えないような気がするけれども、その心意気や率直な表現の仕方は、実に感動的ですらある。齢八十三歳にして、この若々しさは何なのだろうと敬服しないではいられなかった。 | |||||
by ヤマ '97. 3.21. 県民文化ホール・グリーン | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|