『母』('63)
監督 新藤 兼人


 実にたくさんの社会問題を含んだ意欲作だ。その総てが消化されていたとは思えないが、女性問題(最近では、こういうニュアンスで問題という言葉を使ってはいけないらしい。「課題」に置き換えているようだ。)が前面に出て、軸としてぶれていないので、作品的な曖昧さを印象として残さない。女性の底知れぬ強さといったものが強烈に印象づけられる作品だった。
 絵に描いたような不幸と格闘しながら、苛酷な人生を挫けずに生き抜く姉、民子(乙羽信子)と対照的なひ弱さで人生に挫折し、生命を落とす弟、春雄(高橋幸治)の存在が個人としての強さ弱さを越えて、女の強さと男の弱さのようにして見えてきた。
 姉弟は、ともに聡明で強い自意識と自我を持っているが、姉は平凡な結婚を強いられた後、二度の結婚生活に破れ、被爆の陰を背負い、幼い息子利夫(頭師佳孝)の脳腫瘍に苦しみつつ、自活もままならない暮らしぶりで、弟のほうは母親芳枝(杉村春子)の寄せる期待のもとに姉とは比較にならない厚遇を受け、大学にも通わせてもらっている。二人の違いは、ひとえに男と女の違いだけで生じているように見受けられる。そして、幼いときから姉には借りがあるように感じている弟にとって、そのこと自体が彼に息苦しさと形見の狭さを感じさせているように見受けられた。
 どちらの苦しみがより苛酷なものであるのかを比較するのは、苦しい思いで生きている当人たちにとっては全く意味のないことだが、得てして衆目は姉の直面している苛酷さのほうが切実だと見るものだし、それが著しく妥当さを欠いているとも言えないようなところがある。だが、弟に巣くった負い目や後ろめたさは、ある意味で彼の誠実さや純粋さの証でもあり、それが自身を追い込む形になった以上、切実であったことは確かで、そのことをもって責められるべきものではないことも明らかだ。ただ結果として、学生を続けるだけの強靭さを欠き、逃げるような形で働く身に自分を置くことでは救いも得られず、ほとんど自殺とも言えるような人生の終え方をする。
 その顛末を単なる堕落や荒みとして描かずに、ある種の真摯な切実さをもって描いているところが重要だ。だからこそ、残された女たち、母や姉の悲嘆にくれる姿と対照して、彼岸に逃れた者の弱さと生き残る者の強さを感じることができるのだと思う。そして、その対照が単に登場人物個々人の対照に留まらず、女の強さと男の弱さにまで普遍化されるのは、民子と春雄が直面した苦悩のありようが相互に性別を入れ替えて設定することが不可能に見受けられるほど、強い性差を感じさせるものだからだ。さらには、幼い息子の手術費欲しさに、本意ではない結婚をするだけでなく、その子供を亡くしても、改めて子を宿し、男との生活の再生を試みようとすることのできる強靭さを持った母性を女の強さの原点のように鮮やかに浮かび上がらせたラストに至って、男が到底かなうものではないことを思い知らされたような気がする。
 また、この作品が鋭いのは、民子の母芳枝を通じて、女性たちを最も尊重しようとしないのは当の女性たち自身であることを痛切に描きだして、尚且つそこに、捨てられた女としての母の苦しみが投影されているという形での男の影をしのばせているところだ。芳枝は、夫との関係性ひとつで、健気なしっかり者のいい女房にもなり得た女性であることを窺わせながら、相性の不遇によってそれらがむしろ仇となる関係性のなかで、夫から女を否定される形で家出されたために、女性でありながら女であることを蔑む眼差しや男への不信と未練、息子への過剰な心理的依存を余儀なくされた女性であるように描かれている。そして、利夫の手術費を出すことで、民子と三度目の結婚を果たす、連れ児の娘持ちの在日韓国人田島(殿山泰司)の人物造形になかなか味があった。
by ヤマ

'01. 5.13. 平和資料館・草の家



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