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美術館特別上映会“イタリア映画祭2001”イタリア旅行:90年代秀作選
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一つの国でも時代や土地柄によって、さまざまに異なった相貌を見せるのは当然のことだが、自分を振り返ってみても、自国の映画を観るときには、自然な感覚としてその両方を視野に置くものなのに、外国映画に目を向けたときには、時代に向けるようには土地柄にまでは視線が及ばない。ある国の映画特集を企画しようとするときに、作家や題材、時代区分への着眼による作品選定は、これまでにも繰り返されてきたが、土地柄への着目というものを前面に出した企画は初めてではないかと思う。イタリアという一時代を画したかつての映画大国ゆえにさまざまな切り口による特集企画が練られてきたなかでの新企画だからこそ生まれた発想かもしれないが、そこにはロケーション映画というものの根本に触れるまなざしの確かさがあり、大いに関心を引いた。 この優れた着眼点に絞って作品選定し、濃厚に土地柄を窺わせる作品群による秀作選を編めば、画期的な企画となったはずなのに、欲張って90年代しかも日本未公開作という枠まで課したために選定対象作品が限られ、僕自身は上映会の全作品を鑑賞したわけではないけれども、結果的に各作品の土地柄が際立たなくなりつつ、ロケ地による制約を受けることで秀作選と呼ぶことさえ躊躇われる特集になってしまったことが実に残念だ。 知られざる国の映画なら、日本の配給ルートに乗らない場合も多いので、思いがけない掘り出し物があるかもしれない。だが、イタリア映画の傑作ともなれば、それが知られずに埋もれたり、日本に入ってこないことは考えにくい。事実、毎年十本程度の作品は、着実に輸入されているらしい。そこから漏れた作品でなおかつ90年代に絞ってしまうと、年間100本くらいしか自国の作品を製作していないなかで、土地柄というものに着目した「イタリア旅行」を銘打つに足る秀作選が編めるわけがないという気がする。作品選定にはイタリア側の「イタリア映画海外普及協会」との連携によって当たったようだが、今回の上映会を鑑賞して連想したのは、例えば、逆に日本映画でこの10年間に絞って、なおかつ海外に出なかった作品で各年の日本アカデミー賞の対象作となった作品群のなかから、沖縄・四国といった各地方を舞台にした秀作選を企画して、いったいどんなプログラムができあがるのだろうかと想像すれば、今回の特別上映会の作品水準に大きな期待が寄せられようはずもないことは明白だ。もっとも、作業的にはそのほうが楽というか、選定対象作品を広げれば広げるだけ、とてつもない苦労を招くという気はする。でも、そうであってこそ企画の趣旨が生かされるし、また、それに足るだけの着眼点だと思う。 ことに平日の夜に上映された作品群が散々であった。『ラジオフレッチャ』は、出色の導入部で強い期待感を抱かせたことがかえって裏目になって、尻すぼみどころか腰砕け。75年に国営放送に対抗して十八から二十歳の若者が自分たちのFM放送局を立ち上げ、その後、十八年間も放送し続けてきたという人物が自らを三十一歳と語ったのは、せめても字幕だけの誤植と信じたいところだ。 『死ぬほどターノ』は、マフィアを描いた初めてのミュージカルとして話題になったそうだが、顔役として恐れられるマフィアのボスだという男がどう観てもただの肉屋の親父で情けないし、映画のなかで歌いさえすればミュージカルかと文句を言いたくなるし、破天荒と言うも恥ずかしいただの出鱈目な映画づくりをしているように見えた。従来の映画に見られないものが、総て新しい表現だとは言えないことの典型だと思う。並んで腰掛けて歌っている体格のいいおばさんたちがソロを取るたびに振っていたカメラが、振り方を間違ってもリテイクしていないものをドキュメンタルなカメラワークによるミュージカルシーンなどとは、決して呼びたくない。 この二作品は、ともにダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞新人監督賞を受賞しているらしいのだが、映画の新しさというものに対するセンスがいかにも御粗末だという気がする。 『目をつむって』は、ロケも撮影も役者も充実しているだけに、どうしてこんな顛末にしたのかといぶかしむようなラストにがっかりした。ただの未熟な青年のお馬鹿なのぼせあがりにしてしまっては、それまでの語り口が何だったのか違和感が残る。辛口で終わりたかったのなら、手法やスタイルはまた異なるはずだという気がした。 それらに比べると、一挙に四作品上映した土曜日の作品群は、傑出した作品はないものの充分楽しめた。いかにも女性映画と呼ぶにふさわしい『アクロバットの女たち』は、四人の女性の名前で構成を区切ることの必然性を僕は感じることができなかったが、生の不全感を癒すことができないままに生きている女性たちの思いが心情としてではなく、感覚として浮かび上がってきているような気がして、ついつい女性客の感想を訊ねてみたくなる魅力が漂っていた。 タヴィアーニ兄弟とピランデッロとくれば『カオス・シチリア物語』を想起するように『笑う男』も異なる物語を二部構成で繋いだ作品だ。キーワードは“裏切り”だろうと僕は感じた。『太陽は夜も輝く』以降『フィオリーレ花月の伝説』も含め、90年代の彼らの作品には失望していたが、第一話の「フェリーチェ」には彼らのよさが戻ってきたような味わいのなかにもキェシロフスキ監督の『トリコロール/白の愛』を想起させる魅力を感じた。映画のなかに漂う哀切が見事で、笑う男を演じたアントニオ・アルバネーゼが素晴らしい。こういった寓話的な題材を扱うとやはり卓抜した巧さを見せるものだと感心した。だが、第二話は寓話的象徴性が後退し、“裏切り”というキーワードに妙に囚われただけの形骸的なものになっていた。 『聖アントニオと盗人たち』は、その日暮らしの盗人稼業に身をやつした中年男アントニオ(アントニオ・アルバネーゼ)とウィリー(ファブリツィオ・ベントヴォリオ) の二人組の珍妙なコンビぶりを描いた娯楽作品。ひょんなところから分を越えた大それた盗みをやって悪戦苦闘する物語だが、アメリカ映画では絶対にこういう味は出ないというイタリア映画ならではの味わいがあって、けっこう楽しめた。何もかもを失っていたウィリーが自分と自信を取り戻す手応えを感じる物語の顛末にも味がある。 今回観た作品のなかで最も優れていたのは、上映会全体の最後に上映されたマルコ・ベロッキオ監督の『乳母』であったように思う。『笑う男』同様、ルイジ・ピランデッロの小説による作品で、『聖アントニオと盗人たち』のファブリツィオ・ベントヴォリオが随分と異なるイメージで登場していた。折しも日本初の代理出産にまつわる報道があった日に観たわけだが、授乳を託する乳母にさえ赤ん坊をとられたと感じ、母親としての自分、ひいては妻としての自分を失ったように感じる女性の心理が百年前だからとだけ言って済ませてしまえないように感じさせてタイムリーだった。また、言葉を手に入れることの原初的な意味と喜びを歴史劇のなかで語りつつ、自らを表現することや女性問題についてなお今日的な刺激をもたらす堂々とした作品だったが、同時にまた、ほとんどどこにも新鮮なインパクトがないような感じの作品でもあった。 参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より http://www2.net-kochi.gr.jp/~kenbunka/museum/italia/italia.cinema2.html#our 推薦テクスト:「BELLET'S MOVIE TALK」より http://members.tripod.co.jp/bellet/movie/fes3.html | ||||||||||||||||||||||
by ヤマ '01. 5.16.〜 5.19. 県立美術館ホール | ||||||||||||||||||||||
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