『アンジェラの灰』(Angela's ashes)


   アラン・パーカーの作品を僕が観るのは、『愛と哀しみの旅路』以来だから、もう十年になる。学生時分に『ミッドナイト・エクスプレス』を観て、鮮烈な印象を残してくれた後、『フェイム』はまだしも『バーディ』を観て少し首を傾げ、『エンジェル・ハート』でがっかりした覚えがある。その後、『ミシシッピー・バーニング』や『愛と哀しみの旅路』で意欲を感じながらも、あの鮮烈さは二度と戻ってこないことを確信した。その後の作品は、観る機会がなくて、今回十年ぶりに新作と出会ったことになる。

 それにしても、なんだかえらく落ち着いた作品を撮ったものだ。ライティングが素晴らしく、冷え冷えとした空気やじめじめとした湿気が伝わってくる見事な映像なのに、苛酷な境遇の切迫感や厳しさが充分に伝わってこないのは、脚本の力不足ではないかと思う。母親の遺灰を思わせるタイトルからすれば、おそらくは相当な長編であったと思われる原作のどの場面を切り繋いでいくかにおいて、場面自体を欲張り過ぎたために緊密度が落ち、二時間半もかけながら、今一つ散漫な印象が免れなくなったのではないかという気がする。

 極貧の厳しく苛酷な境遇を生き延びて旅立つ少年の物語とくれば、同じく二時間半の大作で一大長編小説を原作にした、ビレ・アウグストの監督脚本によるペレを想起しないではいられないのだが、あの厳しさと緊密感には見劣りするのは否めない。潔くペレ少年に焦点を絞った脚本が功を奏したと思われるが、この作品では、アンジェラ(エミリー・ワトソン)にも父親マラキ(ロバート・カーライル)にもフランク(幼年時代:ジョー・ブリーン、十代前半:キアラン・オーウェンズ、十代後半:マイケル・リッジ)にも軸が絞り切れず、中途半端になってしまった。

 印象深かったのは、父親マラキのキャラクターだ。北アイルランドの出身という中途半端な立場が殊の外、彼を生きにくい境遇に追いやっていたように見受けられた。アイルランドのなかでは確か北のほうが比較的富裕でイギリスとの関係も深く、それゆえに近親憎悪的にイギリス以上に南から嫌われ、北は南を蔑んでいたと教わったような記憶がある。父親マラキは北で落ちこぼれたか、あるいは若者らしく純な民族主義に目覚めてIRAに参加し、下っ端でもって追われる身となり、アメリカに渡って、ブルックリンで貧困に喘いでいたのではないかという気がする。若気の至りで踏み外したばっかりに持てる頭脳と能力を潰し、人生の敗残者に転落してしまった自責と悔いが、彼の妙に取り繕った虚勢に近いプライドの高さや生活能力のなさ、酒に溺れる姿に偲ばれるように思った。そして、フランクの通う学校での日常的に不断にイギリスへの憎悪を植え込む教育のありようには根深い凄みがあった。

 しかし、最も強烈だったのは、父親と違って頼れる男に成長しつつあるとアンジェラが思っていた息子フランクが、ある夜、初めての酒に泥酔して帰宅し、彼自身が最も嫌っていた父親の酔態と全く同じ醜態を、唄う歌から家族を起こし怒鳴る言葉まで、そっくりに再現したのを彼女が目の当たりにした場面だった。アンジェラにとって、何という苛酷さであったことか。ある意味では、何人もの子供を抱え、身を寄せるところもなく頼った従兄弟のベッドに、追い出されずに済むよう夜伽にいく屈辱を息子から非難された、その後の言葉以上に、いっさいのものが空しくなるような脱力感を与えていたような気がする。酔態は否応なく繰り返されて学習せざるを得なかったものが無自覚なるままに表出したものだし、掟破りの暴言は、彼にはまだ状況を完全に理解し、把握するだけの器量が備わってなかった時点のことだったりするから、仕方がない側面もあるのだが、アンジェラの受けた痛みには、察して余りあるものがあった。それにしても、この作品に限らず、映画を観ているとよく感じることだが、男って本当ろくなもんじゃないなぁとつくづく思う。




推薦テクスト:「マダム・DEEPのシネマサロン 」より
http://madamdeep.fc2web.com/angelasashes.htm
by ヤマ

'01. 1.26. 県民文化ホール・グリーン



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