| |||||
『川の流れのように』 | |||||
監督 秋元 康 | |||||
最初のほうこそ、田舎に生まれ育った老人たちの言葉に土地の訛りというものが全くないことに違和感を覚えていたが、軽やかにテンポよく場面やエピソードを盛り込んでいく脚本の運びの巧みさにうまく乗せられていった。冒頭からして、葬列に遭遇してバスを一時停止させた運転手が制帽をとって黙礼する姿と主人公が座席で色の入っためがねを外すことがタイミングよく呼応しており、このバスのシーンで印象づけた林檎がその後もきちんと意味をもった形で扱われて登場するなど、実に丁寧に書き込まれた脚本だ。作詞家として世に出た監督が脚本に加わっているからか、言葉への感性が窺えるようなフレーズや台詞に溢れていて、あざとさに陥る一歩手前で見事に踏みとどまって、決して刺激的ではない穏やかさではありながら、最大限に情緒を揺さぶってくる。思わず、流れる涙が止まらなくなったりした。 それにしても、年輩の日本人お顔やちょっとしたときの表情を主人公だけでなく皆が皆という形で、こんなにも美しく魅力的だと感じさせてくれた映画は、あまり記憶にない。なかでも田中邦衛は、ときに鼻につくことも多い、癖のある演技が今回は絶妙のバランスで、彼のキャリアのなかでも出色のものとなったのではなかろうか。 生きる喜びを率直に描くことで「生きるということは、ただ生き長らえることではなくて、命の輝きを絶やさないことなのだ」と優しく力強く訴えてくる映画であった。人間が年輪を重ねることで老い以上に美しさやかっこよさを実現できる可能性というものを希望として感じさせるだけの力を持っていたように思う。 そのような、今という時間の掛け替えのなさに対する不断の認識こそが呼び起こす命の輝きというものを描いていたり、迫り来る死期を前にして主人公が無伴奏で唄を歌ったり、という点で、黒澤明監督の『生きる』を思い出させる映画でもあった。『生きる』で強烈に描かれていた老人の絶望と孤独や己が生への悔悟といったものは、この作品でも主人公以外の老人たちのなかの諦観として始めのほうで触れられていたし、命の輝きのもたらすものが生きる喜びであることも共通している。しかし、ちょうどネガ・ポジのように正反対の関係になっていて、必然的に映画を観た後に残るものは違ってきた。 その違いをもたらした最大の理由は、『生きる』の渡辺課長(志村喬)には自分の命を燃やして残した公園はあっても、周囲の生きながらにして死んでいる多くの人の命自体も輝かせたわけではなかったのに比べ、この作品の百合子(森光子)は、病院の待合で溜まっているしかなかった、幼なじみの老人たちのしょぼくれた命に輝きを与え、果てには岬の町までもが変わっていく予感を残していったという違いである。ペシミズムに色濃く支配された『生きる』とメルヘンさえ感じさせるオプティミズムに根底が支えられていたこの作品がネガ・ポジの関係にあるというのはそういう意味だ。 それにしても、最後に残したフィルムのなかで、森光子が歌っていた「川の流れのように」は圧巻だった。志村喬の歌った「ゴンドラの唄」に優るとも劣らない強い印象を残している。万感込み上げ、涙声に崩れそうになるほどの感情を湧出する演技力もさることながら、崩れまいと呼吸を整え区切りながら歌い続ける百合子を演じてなお、込み上がってくる感情自体は完璧に持続させていたのは、見事というほかない。その歌いっぷりには、女流作家広沢百合子となったサキちゃんの気丈さが、再会した幼なじみへの感謝と彼らに今生の別れを告げなければならない辛さや淋しさとをやさしく美しい情感に整えて歌にしていることがありありと窺えて、ぐっと身に沁みた。そして、それを見守る一平(田中邦衛)、哲司(いかりや長介)、時夫(谷啓)、ユキ(久我美子)、しんこ(菅井きん)、よね(三崎千恵子)もみんな素敵だった。 *参照テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/taidan/kawanonagare.html | |||||
by ヤマ '00. 6. 3. あたご劇場 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|