『白痴』
監督 手塚 眞


 新世紀を目前にした時代感覚を奔放なイメージ力で映像化し、日本の映画には珍しいくらいのスケール感を現出させた佳作だった。加えて、終末感とともに新世界の再生を思わせる寓意に満ちた神話的骨格を備えることにも成功している。

 場所も時代も特定できない虚構の世界ながら、五十年前の太平洋戦争当時の日本の被爆とマスメディアとしてのテレビが異様に社会的影響力を持ち、人間の関係において力の論理がはびこり、扇情的な大衆文化が爛熟する日本の現在を共時的に包括したイメージが提起される。そこには、同時代に生きる者にとっては少々乱暴に見える一方で、永い歴史のなかでは遠い未来から振り返れば、五十年の差異なんてないにも等しいことだという気にさせるだけの時間感覚というものがスケール感として宿っていたようにも思う。

 爆撃の炎に包まれることになる街の遠景にあるのは、人間の思い上がりを示すブリューゲル風の“バベルの塔”。炎と爆風に粉砕されていく“聖母像”の絵やミケランジェロの“天地創造/アダムの創造”。業火に追われてぞろぞろと逃げ行く群衆のイメージは、まるで“ハメルーンの笛吹き”だ。炎のなかを伊沢(浅野忠信)とサヨ(甲田益也子)がバックに流れる名曲“キエフの大門”[ムソルグスキ:「展覧会の絵」より]によって提示された「大きな門をくぐり抜けるようにして新世界へと進む」イメージは、まるで旧約聖書“出エジプト記”の海割れさながらだ。そして、伊沢とサヨの融合の後に訪れた新世界の再生がユング的な“グレートマザー(太母)”のイメージで表現されたり、そのグレートマザーが東洋的なインドの菩薩と西洋的なニンフのイメージを併せ持っていたりするなど、溢れんばかりの引用がなかなか刺激的で、なおかつ極めて判りやすい。しかしその一方で、どこか視覚的効果をあげるためだけにいささか安易に借りてきたという表層的な印象を残していたような気もする。

 でも、行き先も判らぬままに人の流れに身を任せて逃げていく群衆のなかにあって、闇雲にみんなと同じ方向を目指していてはいけないんだと伊沢が力強い口調で「恐れるな。そして、僕から離れるな。いいね、わかったね。」とサキに語りかけ、ともに新世界を目指す姿には、どこか願いと祈りが込められているようで好もしい。それまでナレーション的一人語りばかりで、ほとんど台詞らしきものが印象に残っていなかった伊沢が初めて台詞として力強く発したものでもあったが、そのようにすることで際立つよう工夫されていたのだろう。

 総てを焼き尽くす炎と爆撃の映像がやたらと美しく壮大で思わず息を飲むほどに徹底していたからこそ、そのあとが新世界の再生を思わせるのだが、なかなか見事なものだ。しかし、2時間26分もの長編である必要はなかったのではないか。TV局の帝国スペシャルという番組やらカリスマ的アイドルの銀河(橋本麗香)に関するエピソードは少々くどかったように思うし、サヨの夫(草刈正雄)の石に顔を描く営みのエピソードも勿体がついていたように思う。

 それにしても、日本の文化的特長とも思える外国文化の吸収嚥下力というものを改めて思い知らされるような気がした。前述列挙したもののほかにも新約聖書の記述を背景にしたサロメ=ヘロデヤ伝説の“ヨハネの首”を想起させるものがあったし、銀河の衣装や踊りは東南アジアを偲ばせるものであった。




*参照テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/hakuti.html
推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://atelier-canon.sakura.ne.jp/artsworks/KOGURE/HAKUCHI.html
by ヤマ

'00. 3.23. 県民文化ホール・グリーン



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