とべない沈黙をめぐる往復書簡編集採録
黒木和雄監督
ヤマ(管理人)


拝復 お元気にご活躍のこと嬉しく存じます。

 田辺さんの上映会で『とべない沈黙』をごらんになった由、それにご懇切な批評をご恵送くださって恐縮しております。

 小生の劇映画の処女作ですが、六四年に現場をもち(ヒロシマがクランクインです)、六五年あたまに完成しましたが、東宝配給がNG(封切寸前に)となり、翌年(六六年)に東宝の子会社ATGで公開されたものです。

 スタッフはほとんどが、二十代の岩波映画以来の仲間で、“映画文法のABC”も皆目未知というか無知のなかで撮ったものでした。日本の命運にかかわる「日米安保條約」への危惧と危機感がモチベーションです。そのあたりドラマとしてはたして昇華されたものとなったかどうか、いささか眼高手低の憾みが残ります。

 山本さんが拙作をじつに丁寧にごらんになったことがお便りの文章からもうかがわれ汗顔の思いです。有難うございます。(友人たちが作ってくれた『映画作家 黒木和雄の全貌』(97年 アテネフランセ、フィルムアート社)はお読みいただいているでしょうか。『とべない沈黙』製作の背景などが書いてあります。

 『高知の自主上映から』(96年)以来ますますのご活躍に敬服しております。…

 ―ご自愛を念じ右とりあえずしたためました。

                              再見

                          二〇〇〇年五月一日

                               黒木和雄
 ※新作『スリ』は九月、東京渋谷シネ・アミューズで公開されます。試写は六月からはじまります。


 拝啓、黒木和雄さま。

 『映画作家 黒木和雄の全貌』をご恵与いただけるとは思いもかけぬ光栄で、すっかり恐縮しております。私の葉書が届いて、すぐさま送っていただいたお心遣いにはお礼の言葉もありません。

 早速、まず『とべない沈黙』にかかるところを追うようにして読みました。自分の受け取っていたものは、そう的外れではなく、結構いい線いっていたんだと思えて、何だか浮き立ち、嬉しくなりました。

 “全作品をふりかえる”で、黒木さんが「…ここから実はベトナムに話は飛ぶはずだったが、スタッフにヴィザが降りず、やむなく香港とした。」とお書きになっているのを読んで、やっぱりそうだったかと思わず頷きました。もしそうなっていたら、私の日誌で「…次第に北上していくのかと思ったら、京都から大阪に逆戻りしただけでなく、香港まで飛んでしまうという形で意表を突いて…」という部分が変わっていただろうなと思います。作品に込められた問題意識がもっと鮮明になり、より判りやすくなったでしょうし、そうなったとき、そのあとの部分がどのような展開をみせたのか興味深く思います。

 でも、そうなってしまうと上野氏が支持指摘しておられるような効果はなくなり、非常に直接的な関連性を帯びてくることにより、松本氏が綴っておられる「…私はそういう外向きのパノラミックアイが、今日の状況を根源でとらえるうえに、いかに不毛かということを強調する必要があるだろう。」という批判は、より鮮明なものとなってきます。この松本氏の批判は、まさしく同時代の状況そのものに身を置く当事者感覚から生まれるものなんだろうなというふうに思いました。でも、それを不毛と言い切る純化へのベクトルは運動を狭く小さいものにし、多くの人々の共感を包括することはできなくなり、現実的な力を持ち得なくなります。そのことへの苛立ちというものが、限られた少数者による過激な活動へと向かわせたようにも思います。

 それにしても松本氏の具体的で明晰な指摘と分析は、凄いですね。こういうノートこそがプロの手にかかる批評たるに相応しいものだと思いました。ほぼ総てを感心しながら読んだのですが、ひとつだけ断固として異論を唱えたい部分がありました。それは具象としての虫の存在を邪魔で不自然なものとし、その移動手続きを説明する描写を愚としているところです。

 ロードムービーという概念が一般化されてなかった時点において、とりわけ各エピソードに対して、存在を阻まれるもの(真実、愛、自由など)をあらわしたものだと主に観る形で、抽象する眼差しに偏るとそのような批判が出るのも仕方がないと思いますが、私が『とべない沈黙』に感銘を受けたのは、この作品には、そういう頭でっかちな抽象にのみ向かう眼差しではなく、「時代の証言者としての日本各地の声なき光景をフィルムに焼き付けておきたかったから生まれたのだろう」と思える視線があったからでした。つまり名もなき人々が暮らしている街並みと人の営みをあちこちで目撃していくナガサキアゲハの幼虫の旅を軸に展開していく映画であったからこそ感銘を受けたのでした。そして、「それらの光景は、まるで冒頭のサナギからの羽化と同じように女の肌を接写するがごとく、すでに十年前に「もはや戦後ではない」と謳いあげた日本を接写すると、まざまざと浮かび上がってくるものだと言っているかのよう」な光景であり、まさしく庶民の声なき声がオフ音声で挿入されていたからこそ、「ドキュメンタリー作家を出発点とした作り手らしい骨の太い問題意識」を喚起されたのだと思っています。

 その意味で、目撃者としての具象の虫やその移動手続きの描写は、私にとっては愚どころか必須のもので、むしろその描写は、各地で必ず登場するという以上に、移動手続きとしてもっと現実レベルでの整合性の高いものであってほしかったくらいです。

 ところで、“ごった煮の美学”というフレーズは、なかなか素敵ですね。それに触発されて思い起こした作品があります。86年、私が28歳になって間もなくのときに観たアントニオ・ダス・モルテスです。当時の日誌に綴ったノートの冒頭の段落をご紹介します。

 「この作品の面白さは、ある意味でごった煮の面白さである。ブラジルの民族的伝説をベースにして、ヨーロッパ映画的抽象性に西部劇の野趣とマカロニの生臭さを盛り込んで、第三世界らしい社会闘争的主題が、南米のリズムと伝誦という時間の蓄積を感じさせる歌とともに語られる。この欲張り過ぎでしかも無節操にも見られそうな様々な映画的興趣の取り込み方には、いかにも第三世界の新興エネルギーのパワーが感じられるのだが、それらが作り手の思い付きとして断片的に現われるのではなく、混然一体となって一つの世界の構築を果たしている。それは、カオスの世界の持つ魅力とパワーに通ずるものであり、決してただのごった煮に留まってはいない。

 『とべない沈黙』は、この『アントニオ・ダス・モルテス』が製作された69年のさらに五年前に広島から撮り始めた作品だったのですよね。改めて田辺氏が作ってくれた機会に感謝すると共に、黒木さんからいただいた本のお陰で一層鑑賞を深めることができたことに感謝しております。ありがとうございました。

                             敬具

                       二〇〇〇年五月十三日

                       高知映画鑑賞会 ****

編集採録by ヤマ

2000年 5月 1日~2000年 5月13日



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>