『どら平太』
監督 市川 崑 / 脚本 四騎の会


 日本映画の伝統のよき部分が蘇ってきたような『雨あがる』を三か月ほど前に観たばかりだったので、同じ山本周五郎原作の時代劇で三十年前の脚本が蘇っての映画化だという事情もあって期待するところがあった。懐古的ないとおしみに流されず、現在的な視線で製作されていたのは流石であったが、チラシに謳われた「痛快、愉快、豪快!」な気分がおのずと誘発されてくる作品ではなかった。企画当時に製作していたら面白い作品になっていたことを偲ばせるだけのものは備えていながら、今では叶わなくなっていることが印象づけられた気がする。それはロケ地の風景とかいうことではなく、主に役者の問題だ。
 この映画の脚本と演出は、ある種の軽みを狙っていることは明らかなのだが、それが浮わついたものにならずに軽みの味を出すためには、エピソードで説明することを要さずに悪者なら悪者、どら者ならどら者としての存在感を居ながらにして体現する役者が必要なのだ。悪行非道を劇中エピソードとして具体的に綴ってしまうと重厚になり過ぎて、意図する軽みが生まれる余地がなくなる。だからこそ、“居ながらにして見るからに”という役者の存在感だけで納得させることが必要なのだ。むかしは、そういう役者が確かにいた。ことに悪役において、登場しただけで十分な説得力を持った悪役がいなくなってしまっていることを痛感させられた。この作品において、エピソードで説明しなくても役者の存在感だけで映画のなかで課せられたキャラクターとして観る側を納得させることができていたのは、流れの女賭博師を演じていた岸田今日子くらいではなかったか。あとは、映画のなかで“どら者”とされているから“どら者”として了解してやるしかない“放埒豪毅などら者にはおよそ見えない”役所広司とか、もはや登場しただけでは悪としての説得力を持ち得なくなっている菅原文太、石橋蓮司や大滝秀治、加藤武など。ほかにも例えば、夜鷹稼業の辛酸をしたたかに生き抜いてきた大年増の下卑た荒みにしても、伊佐山ひろ子が及びもつかないような説得力で姿をみせることのできた役者が、むかしはいくらでもいたのではないかという気がする。
 だから、映画のなかでは百鬼夜行と言われる壕外や極悪非道とされる親分衆、老獪な権力者とされる藩の重役たちがちっともそうは見えないのだ。そういう設定なのだからと仕方なく了解してやるしかなくなる。そんなわけだから、彼らとの対決の顛末が、埒を外れた“どら平太”流の人の食い方で調子を外された軽妙さに翻弄されるという痛快さでは綴られずに、何だかとてもあやかしいものに見えてしまう。折角の脚本と演出の狙いが生きてこないのだ。
 そういうなかで、キャラクターとしての存在感が比較的この作品で嵌まっていたのが、浅野ゆう子、宇崎竜童、片岡鶴太郎、うじきつよし、尾藤イサオといった、もともとは役者育ちではない面々だったのは何故だろう。演技力うんぬんということよりも存在感やキャラクターの力で役者の世界に入ってきた人たちだから、かもしれない。
 映像の緊密さ、重厚さといったものには特筆するだけの見応えがあった。もし、この作品が本来の狙いである軽みの味を全うできていたら、その対照的でありながら拮抗したバランスが絶妙の味わいにもなったことだろうと偲ばれる。だが、いかんせん、ドラマが浮わついたあやかしさに見えてしまうなかでは、映像とのバランスがえらく不釣合いに感じられた。下手すると、むしろ仇になってしまうように感じられる傾向すら窺えて、観ていて、ちょっと複雑な気分を催した。
 でも、ヘンに奇を衒った、凝っているようでいて底の浅い、どぎついだけの映像や大した内容でもないのに、複雑で解りにくいストーリーの作品が横行しているなかで、シンプリシティへの回帰や見直しは、断固支持したいところではある。
by ヤマ

'00. 5.28. 東 宝 3



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