『ビューティフル・ピープル』(Beautiful People)


 ボスニアからイギリスに帰化したという新人監督の第一作らしいが、骨の太い、なかなかの力を持った作品だ。この人間観の大きさは、人生体験のなかで人間として鍛えられざるを得ない苛烈な時間を過ごしてきた人でないと造形できない世界だと感じさせるに充分なものがあった。ボスニア難民のみならずアイルランド人といった異国者も含めて、イギリス社会に住むいろいろな階層の人たちを登場させ、その“以上でも以下でもない”個々の人間像の現実を的確に捉えたうえで、いかにも接点のなさそうな総ての人がそれぞれの人生のステージで絶妙にクロスしていく見事なストーリー展開だ。
 よく言われる日本社会の同質性と対極を示すイギリス社会の現実を見せつけられ、こういう国では本当に政治が難しかろうと思った。日本のように、政治そっちのけで政局に奔走していられるはずもない。言語の違い、文化の違い、社会階層の違い、世代間ギャップ、貧富の差、決して小さくはないさまざまな違いが重層的に各個人を包み込み、しかもそれぞれが個々の生活の苦悩を背負って生きているのだ。とても共通の土俵など作れそうにもない。個人レベルであれ、民族レベルであれ、国家レベルであれ、絶え間なき紛争と諍いを余儀なくされるのが人間であることをつくづく知らされる。
 それでもなお、“すこしの運があれば、人生は美しくなれる”というのも人間の真実なのだ。高い志や秀でた見識、善意や愛などといった個人の人格に帰せられるようなものではないと喝破しているところが慧眼と言うべきところだ。その意味では、チラシのコピーで「運」を「愛」に変えているのは、作り手の透徹した人間観を冒涜する、とんでもない暴挙だ。
 約束された希望など何処にもないのが人間なのだが、約束された絶望もまた何処にもないと無言のうちに言い切る映画の力強さに打たれる。新妻を敵兵たちに輪姦され妊娠させられたボスニア難民の若夫婦に生まれた赤ん坊が“カオス”と名付けられるのは、象徴的だ。二人はカオスの誕生によって「運」を手に入れる。実直ながらも家庭生活が破綻して消耗の極にあった医師も、彼らを庇護する行きがかりという「運」によって、人生を美しく輝かせ始める。その医師のもとを去った妻がカフェに忘れた財布を届けようとして交通事故にあったボスニア難民の青年は、有力政治家を父に持ちながらも親に反発している研修医の娘と恋に落ちるという「運」を得て、生活保護を受けるしかない先の当てもない難民生活から抜け出し、英国に帰化して自己実現を図れる生活に踏み出すチャンスを手に入れる。研修女医も彼との出逢いという「運」により、その結婚への過程でどうしようもなかった父親との親和性を取り戻す。
 この病院では、大怪我をしながらもまだいがみ合うセルビア人とクロアチア人がアイルランド過激派の患者と同室になってもめ事ばかり起こしていたのに、揃って世話になるしかなかったのが政治や民族問題に全く無頓着なおばさん看護婦だったという「運」のおかげで、果てには四人でトランプに興じたりする。謹厳な父親のもとで暮らしながら、職にあぶれてジャンキー仲間と荒んだ生活をしていた若者は、サッカーの応援にオランダに飛ぶはずがラリってしまい、貨物籠に潜り込んでボスニア救援物資とともに戦禍の村に投下されるなかで、国連部隊の野戦病院で悲惨の窮みを目撃する「運」を得て、生の実感を取り戻し、ヒロイックな帰国を果たす。両親の自分を見る目が変わった。彼のヤク中仲間も、たまたま友人が戦禍に失明した少年を連れ帰ってくれたという「運」によって何かが変わり始める。戦場で若者と出会ったBBC契約社員のジャーナリストは、悲惨の窮みを目撃するだけでなく、自身の脚を撃ち抜かれ、帰国後もショックのあまり自失しかけた精神を催眠術によって取り戻すという「運」を得て、擦れ違ってしまうようになっていた芸術家である妻との心の交流をも取り戻す。
 全員の人生が何らかの形で美しく変化し始めるのだが、それに関与しているのは個人を越えた力の存在であることが、観る側に得も言われぬ感銘を与え、何だか大きな救いになっているような作品だった。そこに取り立てて「神」を持ち出さないところがとてもいい。

推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/c/g137.html
推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/PeoBeau.html
by ヤマ

'00. 2.21.  銀座テアトル西友



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