『タンゴ』(Tango)
監督 カルロス・サウラ


 目を奪われ、ため息さえ漏れてしまうほどに見事なタンゴの踊りと音楽。言葉にしてしまうと、一体なんだそりゃってなことにしかならない“毅然とした官能”などというものを現に感じさせてくれるものだから、滅多なことでは味わえない稀有のものだと自覚させられる。加えて後段のタンゴのイメージを越えたスケール感やダイナミズムと社会性で圧倒する群舞とソロ、そして、そのステージ演出の見事さ。イマジネーションの奔放さと造形力の確かさに息をのむ。
 映画なり舞台なりで現実に形象化しながらも現実の生活ではない虚構の現実、主人公の妄想として現れる幻想、彼の現実生活。この三者を渾然一体にして現実認識に対する感覚の境界を取り払い、主人公である映画監督マリオ(ミゲル・アンヘル・ソラ)の内的世界に踏み込んで押し拡げつつも、決して情緒で流していかない語り口は、ひどく個人的でありながらも普遍的で、テオ・アンゲロプロス監督作品を彷彿させる部分がある。踊り自体のインパクトについては、三ヶ月前に観たばかりの“ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップス”の公演を思い起こした。楽曲は、大半が僕には未知のものか聞いたことがあっても覚えていないものだったが、それだけに終盤のパドドゥで流れた“ラ・クンパルシータ”は耳に覚えのあるものでありながら、これまで聞いたことがない新鮮な響きで聞こえてきたのが印象的だった。タンゴとはあまりイメージ的には結びつかなかったパドトロワをエレーナ(ミア・マエストロ)、ラウラ(セシリア・ナロバ)、エルネスト(カルロス・リバローラ)の二男一女で観て、そのドラマ性の濃厚さにたじろいだことも記憶に残るものだ。また、フリオ・ボッカ(フリオ・ボッカ)とエルネストによる男同士での踊りの妖しさも僕のなかでのタンゴのイメージを越えるものだった。
 お話自体は、いわゆるバックステージもので目新しいものではない。ダンサーと演出家(あるいは女優と映画監督)の関係にしても、彼らとプロデューサーとの関係にしても、新人とベテランの確執にしても、名もなき名人としての職人の存在にしても、ほとんど全てがどこかで見覚えのある陳腐なものでしかない。それなのに、映画作品としては実に新鮮な姿で立ち現れてくるのだから、魔法のようなものだ。カンヌ映画祭で高等技術委員会技術グランプリを受賞したのは、そういう魔法の技術を賞したものではなかろうが、僕にはむしろこの魔法こそが技術グランプリに値すると思った。
 これまで観たこともないスケール感でタンゴを見せるモチーフとしてアルゼンチンでの軍事政権による恐怖政治下の虐殺や拷問が演じられたのではあろうが、序盤でのマリオとラウラの痴話喧嘩と敢えて同じ台詞を使って、終盤のこの踊りの場面の直後にアンヘロ(ファン・ルイス・ガリアルド)とエレーナに痴話喧嘩をさせていたところには、意図的なものを感じた。場所や人が変わろうとも男と女が同じ諍いを繰り返す愚かさを脱しきれないように、虐殺や拷問の悲劇もあくことなく繰り返されてきた人間の愚かさの証であるというわけだ。しかし、圧倒的な芸術表現による感動を得た後のアンヘロが、執着していた自分の愛人エレーナがマリオと親密になっていることに逆上するよりも、素晴らしかった舞台の賛辞に駆け寄るところに、この映画の作り手であるカルロス・サウラの芸術家としての自負と願いが窺えるラストであった。

推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex
/tacinemaindex.html#anchor000214

推薦テクスト:「paroparo Cinema」より
http://www2.inforyoma.or.jp/~paromaru/cinema/zatsubun/17.htm
by ヤマ

'00. 2.25.  県民文化ホール・グリーン



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