『エニイ・ギブン・サンデー』(Any Given Sunday)


 アメリカン・フットボールの世界を題材にして、いかにもオリバー・ストーン作品らしいジャーナリスティックなルポルタージュ的眼差しが現場の生々しさを捉えていた。それにより、単なるスポーツドラマを越え、アメリカの国技とも言えるアメフトの世界に凝縮されたアメリカン・スピリッツを焙り出していて見応えがあった。こういう作品を観るとアメリカ人が根っから好戦的であることがよく判るし、そういう心性を自国の文化として、誇らしく継承してきていることを知らされる気がする。力のある選手がスターとしてもてはやされている様子も綺麗事に留まらない生々しさを湛えているので、華やかさで彩りつつも猛々しく強い男に女たちが群がる光景を手放しで肯定し盛り上げるアメリカ文化の本質が浮彫りになる。

 そんなアメフト選手のロッカールームは、日本の盛り場などよりも遙かにおっかなくて、普通の者にはとても足を踏み入れることができそうにない気迫がたぎっていたが、このあたりの臨場感はさすがだ。それは、まさしく命を懸けた戦いというほかない試合の迫力を伝えるうえでも遺憾なく発揮されていて、アメリカン・フットボールの激しくスリリングな魅力の核心を捉えていた。映画館を出る際に耳にした「映画になったアメフトでは最高やったね」というアメフトファンらしい二人連れの会話に、ファンというほどでもないながら、スポーツのなかでは割合好きなものの一つとしている自分も共感を覚えた。

 世代間コミュニケーションの難しさと可能性への希望、誇りを持って生きることへの自負、人間にとってのピークの問題、チームメイトの持つ意味、リーダーの資格、プロフェッショナルであることの証明など、実にさまざまなテーマを盛り込んで、ぐいぐいと力で押し切ってくるような映画だった。そのなかでは、主要なテーマではなかったけれども、個人的に特に印象深かったのがテレビに対する批判的な視線だった。単に批判に留まらず、作り手の嫌悪感のようなものが滲み出ているように感じたからだ。

 20世紀は、映像の世紀とも言われるが、なかでも今世紀後半に登場したテレビによる総てのものの過剰なまでのメディア化というものが、人間の社会や文化、価値観を著しく変質させたのは、周知の事実だ。この映画でもトニー・ダマト(アル・パチーノ)が、テレビのお陰でフットボールがおかしくなったとぼやく。名選手が過剰なまでのスター選手となってとんでもない高額所得者になり、CMタイムのためにゲームの展開さえ変わり、何よりも選手のアメフトに対する考え方が変わってしまったというわけだ。しかし、ジャーナリスティックな資質と関心にとむオリバー・ストーンにとって、フットボール以上に我慢ならないのが、テレビの持つ圧倒的な力によるメディア化によって、ジャーナリズムというものが猛烈に底の浅い軽佻浮薄な扇情主義に変質してきていることではないのかなという思いを抱かせるような嫌悪感が、この作品には滲み出ていたような気がしたのだった。

 チームワークへの称揚といい、疑似血縁関係の絆に対する思い入れといい、この映画に貫かれている価値観は、善し悪しは別にして、かなり懐古的で、そういう意味では保守的であり、ある面では日本的でさえある。そういえば、八年前に観たJFKだったと思うのだが、エンド・ロールのスタッフのクレジットに“内助の功”というのが出てきて、奥さんの名前が記されていたことを思い出した。

 アル・パチーノは、この作品でも例のダミ声で口舌の雄ぶりを遺憾なく発揮していた。『セント・オブ・ウーマン』で強烈に印象づけられた演説の見事さを髣髴させるものがあった。
by ヤマ

'00. 6. 4. 東宝1



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>