『ゴースト・ドッグ』(Ghost Dog)


 何とも面妖な映画であった。“葉隠”や“武士道”を聞いたこともないという日本人はさすがに少なかろうが、馴染みの深さを感じる人もまたほとんどいないはずだ。当の本国で最早ほとんど顧みられていないものに外国から何やら凄まじい思いこみの深さでもって強い憧れを表明されると、妙に居住まいの悪いヘンテコリンな気分になる。馴染みの深さはなくても無縁のものではないから、異文化という外側からコミットして受け取っているものに対する内側からの違和感というかズレのようなものが生じて、「あんたが憧れているのは、日本や武士道というよりも、葉隠なんかを通じて思い描いた、あんた自身のなかの妄想自体に対してであって、ぼくらの知っている武士道や日本文化というのは、あんたの思い描いてくれたものとは、ちょっと違うんだけどな」といった反応になる。
 しかし、考えてみれば、対象が異文化であれ、自文化であれ、そんな違いとは無関係に、憧れという感情自体は実体を正確に捉えることよりも、むしろ思いこみと妄想によって増幅や変質をさせた、自身の内側にあるものに対して抱くのが常であることは、恋愛などを想起するまでもなく自明のことだ。だから、この映画が武士道に対する大いなる誤解に基づいているなどというのは、批判の根拠になるものでは全くない。
 むしろ生半可ではない憧れというものを伝え得て、スタイリッシュであること貫徹し、独特の珍妙な世界を構築しているのだから、たいしたものである。しかし、作り手の思い入れに対して醒めた冷ややかさでしか向かえなかった自分としては、その珍妙さに対する可笑しみに味わいはあっても、共鳴して憧れを誘発されたり、かっこよさを共有できたりする作品だったとは言えず、自分に響いてくる映画ではなかったと言うしかない。刀を鞘に納める手付きそれも実際の型ではなくて、剣劇的に過剰に装飾された、葉隠的とは言えないオーバーアクションでCDやら銃を扱うことにしても、擦れ違いざまに合掌して瞬時立ち止まり「ゴースト・ドッグ、力と平等を!」「すべて熟知、マイ・ブラザー」と何かの符丁か禅問答のような言葉を交わす姿にしても、僕には珍妙な可笑しみの対象であって、憧れやかっこよさには結びつかなかったのだが、禅や葉隠、武士道について全く白紙の外国の人の目にはどう映るのか、尋ねてみたい気がした。かっこよく見えたりするのかなという気がしないでもないのだ。
 一番の親友同士が英語とフランス語で全く言葉の通じない間柄だというふざけた設定は象徴的だ。どちらも一方的に自分の言葉で語り、自分が受け取ったと思う相手からのメッセージにいささかの懐疑も持たないでいられる思い込みの深さと自己完結性が、実際上も何の支障もないというのが相当に珍妙で、なおかつ意味深長さを感じさせる。
 それにしても、ジム・ジャームッシュという監督は、自己肯定感がよほど乏しいらしく、いつも他者とか余所への憧ればかりを綴っている。劇映画での前作『デッドマン』(95)は、ネイティヴ・アメリカンだったし、今回は、アフリカン・アメリカンを主人公にしてのジャポニズムへの思い入れだ。そう言えば、出世作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)でも、主人公が同邦出身者や家族の顰蹙を買うほどに母国ハンガリー語で話すことを嫌って、何かとアメリカ風であることにこだわっていたような記憶がある。思えば、彼の映画には、いつだって生活者としての実感がない。根底に変身願望が流れているのだろうという気がする。友人の一人がその部分に対して、マイナー・ホワイトのコンプレックスの裏返しではないかと語っていたが、そこが魅力でもあるのだ。
by ヤマ

'00. 5.10. 県民文化ホール・グリーン



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