『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(Stranger Than Paradise)
監督 ジム・ジャームッシュ


 この作品を観ていると、田舎を出て東京に独り暮しをしていた時分のことを思い出す。僕の周りにも、大都会東京の住人になることに懸命で、何かにつけ都会風(もっとも、飽くまで彼がそう思っているだけなのだが)にこだわり、久し振りに同郷の友人と会っても、故郷の言葉で話そうとしなかった奴がいたのを覚えている。母国ハンガリー語で話すことを嫌い、何かとアメリカ風であることにこだわっているウィリーと同じである。故郷を見限って、新天地で、新しい生活、新しい自分を築こうとする若者は、自らの過去と決別する必要を感じるのであろう。そこには、若者らしい無理と不自然さとがあって、微笑ましくも滑稽である。

 しかし、そんな気負いとは裏腹に、実際の生活のほうは、新しい自分を築こうなどという大層なことからは程遠い。刺激も変化もなく、退屈で無為なるままに日々が過ぎていく。何をすべきかは無論のこと、何をしたいのかもよく判らないものである。青春時代などといって、大人たちから人生の華のように美化される一時期の大半は、大なり小なり、そういった無為によって埋められていくのが現実である。無為の効用は、決して軽んずべきことではないが、そのさなかにいる若者にとっては、無為・退屈は飽くまで無為・退屈であり、その効用に思いを馳せるほど、自らを客観視できるものではない。それどころか、効用を軽んずべきでないということのほうが、所詮は、後に郷愁とともに自らの過去を意味づけながらしている慰めに過ぎないのかもしれない。

 ウィリーとエディーが俄に思い立つ旅のあり方にしても、ニューヨークから雪のクリーヴランドに来ても何も変わったところはないとつぶやくさまにしても、更には、女の子一人交えて、三人で常夏のフロリダに来ても、することはドッグレース・競馬といった博打だけという有様にしても、思い当たることの多い、情けない青春の姿そのままである。

 若者の旅を描いた作品は、実に沢山あるのだが、大概は、例えば自由を象徴するものとしての旅であったり、傷つきやすい心の受けた痛手を舐る旅であったり、生の模索を意味する旅であったりする。ところが、ここに描かれている旅は、そういった所謂ビルドゥングスを描いたものではなく、退屈で無為な情けない旅なのである。これは、ジム・ジャームッシュが、まだ郷愁とともに青春を美化する位置にいないことの証でもある。しかし、もはや彼も、そのさなかにいるとは言い難い。ラストで、自らの意志とは無関係に母国ハンガリーへ帰国する羽目になってしまったウィリー、降って湧いたような大金を手にしてしまったエヴァ。変化や転機は、思いも掛けないところに待ち伏せている。

 変化を求める日常のなかでは、ワクワクするような変化は得られないのに、大転換が、何の前触れもなく突如としてやって来、それには、否応もなく巻き込まれてしまうのである。つまり、青春期とは、当てもなく無為なるままに、換言すれば、無防備に時を過ごしているうちに、その後の人生を方向づける運命の罠に待ち伏せされている時期だといえるのではないだろうか。まさに、天国というより、「あの世よりもおかしな」この世といった案配で、とんでもないことになるのである。このような視点の提示は、そのさなかにいる者のすることではない。ワン・シーン・ワン・カットの長廻しの一つずつを総てブラック・フレームによって区切っていくスタイルは、まるでスライドの映写による過去の記録めくりのようであり、彼が既にそのさなかにはいないことを示している。

 ところで、この作品、確かに掘り出し物だとは思うが、『掘りだしものベストワン』ならともかく、キネ旬で総合第一位に選出されたと聞くと、ちょっとおかしいんじゃないかという気がする。
by ヤマ

'87. 2. 9. 名画座



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