美術館特別上映会“中国映画祭”


『項羽と劉邦−その愛と興亡−(西楚覇王)』94 監督 スティーブン・シン
『画魂−愛、いつまでも−(画魂)』92 監督 ホアン・シューチン
『硯(硯床)』96 監督 リウ・ピンチェン
『太陽に暴かれて(太陽有耳)』96 監督 イム・ホー
『息子の告発(天國逆子)』94 監督 イム・ホー
『香魂女−湖に生きる−(香魂女)』93 監督 シエ・フェイ
『菊豆(菊豆)』90 監督 チャン・イーモウ
『火の鳥(太陽鳥)』97 監督 ヤン・リーピン
 一日四本、それも中国映画らしい重厚な作品を続けて観ると、いささか網膜に凭れてくる年齢になってしまった。今回のプログラムは、すべて90年代の作品ばかりだ。一世を風靡した第五世代の活躍以降の中国映画の様子が窺える仕組みになっている。こうして一堂に観ると、女優鞏俐(コン・リー) の存在感には改めて脱帽させられた。『項羽と劉邦』の呂雉、『画魂』の玉良、『菊豆』の菊豆、いずれも作品のほぼ全てを一人で背負っていると言ってもあながち過言とは言えないくらいだ。

 洗杞然監督の『項羽と劉邦』は、ひょっとすると大味の大作に終わっているかもしれないとの不安があったのだが、思いのほか面白かった。項羽と虞姫、劉邦と呂雉という二組の男女のキャラクター造形がしっかりしていて、微妙で複雑な相関関係がよく描かれていたからだと思う。あれだけの人馬を投入すれば、陳凱歌や黒澤明ならもっと見事な映像を繰り広げるだろうにとも思ったが、学校時分に習った“鴻門の会”“垓下の戦い”や“四面楚歌”が出てき、“合従連衡”やら“韓信の大勇”“背水の陣”なんかの故事も関連して思い出し、何だか懐かしい気分になった。それにしても、四面楚歌の策を進言したのが劉邦夫人だったとは。圧倒的優勢にあったときの項羽に劣勢の劉邦への和議の申し入れを頼んだ項羽妃の虞美人と、夫劉邦を軽侮し項羽に惹かれながらも皇后となるべく項羽を死に追いやった呂雉の対照が鮮やかだった。劉邦とではなく項羽と天下取りが狙えたならとの呂雉の思いの丈がよく描かれていた。いつの時代でも、どこの国でも、世の中を動かし歴史を作っているのは、産み出す性の女なんだと改めて思う。男はいつも、作らずに壊してきただけなのかもしれない。

 実在した一人の女性画家の生涯を綴った『画魂』(黄蜀芹監督)もまた、骨の太いスケール感のある作品だった。運命に翻弄されつつも健気に懸命に生きる女性の姿を描いて感動的であった。苦界から救い出し、教育を与えてくれ、自己実現の機会に目覚めさせてくれた夫との出会いによって変貌していった玉良の人生は、根っこのところでの支えというものが、結局のところ、自らの内にある夫との絆ないしは存在感だけでしかなかったように見えたのが、はかなくも憐れを誘い、いじらしかった。望まれながらも子供を産めない体の第二夫人として、身寄りも帰るべき故郷も持たない彼女が見舞われた様々な喪失感や寄る辺のなさ、孤独感といったものが情緒過多に流されない形できっちりと描かれていたからこそ、凛として生きていく背筋の通った彼女の人生が美しく感じられたのだと思う。1920年代の中国でパリに留学し、凱旋帰国を果たしながらも放逐され、後半生を異国での一人暮らしで終えた中国人女性洋画家がいたことを知っただけでも大いに収穫だった。

 劉冰鑒監督の『硯』は、かねてより観たかった映画だったのだが、全くの期待外れだった。ばかでかい硯の存在感だけは確かに圧倒的だったが、作り手がそれを持て余してしまったようだ。勿体ぶった展開にもいささか辟易とさせられた。

 『太陽に暴かれて』は、なかなかの意欲作だ。1920年代の軍閥の割拠する動乱の時代を舞台にして、一組の貧しい農民夫婦と太く短く派手な生き方を志向する野心家の男を軸に、時代と社会を描きつつもその時代と登場人物たちに完結した物語としてではなく、神話的な骨格の太さとシンボリックな意味の奥行の深さを感じさせてくれた。とりわけ映画の基調として濃厚に配色された、男性原理と女性原理の対照が効果的だ。人生観や社会観ひいては歴史観にも繋がる人間観の根底のところに立ち返らせてくれるような刺激を与えてくれた。

 『太陽に暴かれて』と同じ嚴浩監督の『息子の告発』と第四世代の謝飛監督の『香魂女』は、ともに斯琴高娃(スーチン・カオワー) が主演女優として強烈な印象を残した作品である。今回の中国映画祭の八作品は全て1990年代の作品であると同時に全てが女性映画でもあった。それを意図して組まれたプログラムではなかったようだが、結果的にそうなっているという点が実に興味深い。
 中国に限った話ではなく、90年代は女性の時代なのだ。どこの国の映画を観ても、女性が男性を圧倒的に凌駕した存在感を漂わせている。とは言っても、中国映画に描かれる存在感豊かな女たちは、『画魂』の玉良、『太陽に暴かれて』の揺揺、『息子の告発』のチャンの母、『香魂女』の香二嫂や環環、『菊豆』の菊豆、いずれの女にしても、みんな辛い境遇と人生を生きている。そのなかで否応なく“愚かさや弱さ”と“賢さや強さ”を同時に体現しつつも逞しく生きていて、矛盾や善悪や因習さえも飲み込んでしまうスケール感を漂わせている。そして、それと対照的に男の卑小感が際立ってくる。まるで卑小な男が女に立ち向かうには横暴という不当な苦肉の策か、財力や権力といった人間性からは離れた部分での社会的な力しかないのだろうかと思わせるほどだ。そのいずれをも表現できない男は、『硯』の夫や『太陽に暴かれて』の揺揺の夫、『菊豆』の天青のような情けない姿を晒すしかない。横暴という醜い姿にしても、虚弱で無力という情けない姿にしても、冴えない姿であることには違いがない。

 張芸謀監督の『菊豆』だけは91年に市民映画会で観ていた作品だ。ドラマにしても、色構成にしても、映像のダイナミズムがいかんなく発揮された力強い作品である。だが、当時観たときもそうだったように、いかにも後味の悪い作品でもある。菊豆にしても天青にしても、所詮、虐げられる側に生まれた者には、暴君である楊金山を排除する革命[的な出来事]がおこったところで救いなどやってきはしないと言わんばかりで、気が滅入る。今回再見して、天白は、まるで文革のときの紅衛兵の恐さを表しているかのように感じた。また、色彩の鮮やかさについては、記憶の印象のほうが実際以上の強烈さで残っていたことにも気づいた。

 『火の鳥』は、ドラマとしてはナルシスティックな独り善がりと神秘的な思わせ振りが鼻につくものの、しなやかで妖しい舞踊の映像が見事だった。絵画でしか見たことがないような人体の曲線ラインを描いてみせる体の柔らかさには驚かされた。チラシには最後に踊ったのが「孔雀舞」と書かれていたが、映画では「孔雀舞」と「蛇舞」で人気を博したタナが視力を失いつつ作り上げた新作が「太陽鳥舞」だったように思うから、最後の踊りは「孔雀舞」ではなかったような気がする。いずれにせよ、満月を思わせる照明を背景にシルエットで見せた冒頭の「孔雀舞?」にしても、円い鏡をいくつも貼り付けて鱗を模したかのような衣装で踊った「蛇舞?」にしても、この映画の監督でもある女性舞踏家の楊麗萍以外にはなかなか真似のできそうにもない踊りだと思った。また、少数民族をたくさんかかえる中国のなかでも、とりわけ少数民族が多いと聞く雲南省には、こんなに南方色の濃い人々もいるのかと驚かされたのも新鮮だった。

 それにしても、趣味の自主上映会と違い、県立美術館というれっきとした公立文化施設の主催する上映会なのに、原題や主要スタッフ・キャストといった資料的情報が提供されていないのは、いかにも手落ちではないかという気がする。特に今回は販売用のパンフレットの準備をしていなかったのだから、チラシに記載するか資料的リーフレットの作成をするかなどの配慮が欲しかったところである。

*『項羽と劉邦』
推薦テクスト:「welcome to sunsroom」より
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kodakan/cinema/review/kouutoryuhou.html
by ヤマ

'99. 8.14〜22. 県立美術館ホール



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