『マイケル・コリンズ』(Michael Collins)
監督 ニール・ジョーダン


 先月の十日に「和平への合意」が整い、今月二十二日に国民投票に付される歴史的転換を迎えたアイルランド問題について、時宜にかなったタイミングで上映されるベネチア映画祭グランプリ作品ということで、嫌がうえでも期待が高まったが、そんな観点からの期待という面では、充分に満たされる作品ではなかった。マイケル・コリンズという一人の男の生涯に焦点を絞り込んだ物語で、そういう意味では、チラシにあった“誰よりも熱く時代を駆け抜けた男”という惹句は、的を射ていたのかもしれない。

 過激派テログループとして名高いIRA(Irish Repubulican Army)の前身、アイルランド義勇軍の戦闘的ゲリラ戦術の指導者としてマフィアを髣髴させるような殺人テロを推し進めたコリンズ。彼は、イギリスを震撼させ、不完全ながらもアイルランド独立への道を開いた。そして、武力闘争の限界にも目覚めつつ、自治権を有する自由国の指導的立場として頭角を現わすようになるなかで、ボスと仰いでいた同志のイーモン・デ・ヴァレラ大統領の嫉妬の前に三十一歳で凶弾に倒れてしまう。印象に残ったのは、彼の颯爽とした苛烈さとヴァレラの卑小さ。まさしくラストで映し出された言葉「コリンズの偉大さは-いずれ歴史に刻まれよう、わたしの愚かさと共に/イーモン・デ・ヴァレラ大統領、1966年」のままに、率直でシンプルな作品だった。

 民族問題を根深いものにしている歴史や宗教、貧富の問題や差別など社会の複雑さを窺わせる部分は極端に排除され、コリンズの生き様のみが浮彫りにされる構成となっているところには、良くも悪くもハリウッドらしさを感じる。そのことには、ある意味で納得しつつも、物足りなくもあった。というのもそのことによって、コリンズをマークしていたアイルランド人の刑事ネッド・ブロイが彼の演説をメモしているうちに感化され、協力者となったエピソードに思いの外インパクトがなかったり、イギリスが震撼したさまというのが今ひとつ実感できなかったりしたからだ。このあたりのところを充分な重みをもって伝えるためには、それらの背景がきちっと語られてなくてはならない。ブロイの協力は、コリンズがゲリラ闘争で頭角を現わしていくうえでの重要な情報源として大きな役割を果たしていたし、イギリスの震撼は、自治権獲得の直接的な契機となったわけで、どちらも共に非常に重要なプロットである。それだけに、そこが弱いのはいかにも残念だった。

 その一方で、デ・ヴァレラのコリンズに対する嫉妬や対抗意識、あるいは、キティを巡る三角関係が背景にあってハリーがデ・ヴァレラ側に流れていったこと、そして彼ら二人と敵対するに至ったときのコリンズの孤独感やそのことが内戦を意味するゆえに彼が抱いた苦悩や挫折感などはよく描かれていたと思う。その点では、デ・ヴァレラ大統領を演じたアラン・リックマンに負うところが大きい。しかし、個々人の生き様が強調されるなかで、歴史としてのスケール感が後退した感が否めず、画面や映像に大きなスケール感があっただけに勿体ない気がする。

 とは言え、これまで知ることのなかったマイケル・コリンズという人物について認知する機会を得たのは収穫だ。若くして歴史を動かし、凶弾に倒れたという点では、その思想には随分と開きがありながら、ともに権力欲が見られないことも含め、幕末の志士・坂本龍馬を想起させるものがあった。

by ヤマ

'98. 5.15. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>