『風の又三郎』
監督 伊藤 俊也


 原作に拮抗するだけの作品をという意気込みが、良きにつけ悪しきにつけ、強く感じられる。一本の木を観ても、一寸した小道具を観ても、手間暇を掛けて作られていることがよく判かるし、映し出される風景や自然のなかには、まだ日本にはこんな素晴らしい所が残っているんだなという感慨をもたらすだけのものがある。しかし、観ていてどうもしっくりこない何かがある。それは、落ち着きのないカメラの動きやこれが子供たちのあるべき姿なのだといった押しつけがましさ以上に、時の流れのもたらしたものであるという気がする。
 賢治の時代には、高田三郎君のような都会からのハイカラな転校生は、それこそ風の又三郎のような眩しさと謎めきとを抱かせたのであろうが、今ではそれがすっかり逆転している。三郎のような子供は割合いて、彼を迎える素朴な田舎の子供たちのほうが珍しい。むしろ、そういう田舎の子供たちのほうが眩しいのである。そのためにドラマのなかでの位置関係と観ている側に映る位置関係が反対向けにずれてしまう恐れがある。そのずれを埋めるほどの力は、この作品も持ち得ていない。だから、妙にしっくりこないのである。そういう逆効果を配慮してか、田舎の子供たちの顔触れは、例えば、先頃の『二十四の瞳』のように、よくも探してきたと思わせるような昔風の子供の顔ではなく、昔の貧しい山村には似つかわしくないような坊ちゃん風の血色の良い健康優良児である。それがために、良くも悪くも、又三郎と好対照を成したりはしない。アニメーションの『銀河鉄道の夜』を観た時に、その硬質な透明感と美しさに感心しながらも、登場人物たちをあえて猫に変えてあったのが、いささかあざといような気もしたことを思い出す。しかし、この作品を観て納得させられるとともに、その見識の確かさには、改めて脱帽させられる思いがした。
by ヤマ

'89. 3.21. にっかつ



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