『3+1』
監督 大木裕之


 愛知芸術文化センターのコラボレーション公演「舟の丘、水の舞台」の記録映像としては、何とも実験的で挑戦的な作品である。画面を注視し、そこに写し撮られた映像と切り取られた時間をより濃密に受け止めることで映画を観ることの楽しみを得てきた者には、オープニングからぐらぐら揺れ、動き回るキャメラや二重三重にオーバーラップする映像の多用など、画面を注視することを拒んでいるとしか思えない映像に、いきなり挑戦的な意図を感じて、興味深くも、いささか辟易とさせられる。

 かつて『優勝-Renaissance 』を前作『HEAVEN-6-BOX』のベルリン国際映画祭招待出品記念特別上映会で観た一ケ月後に、完全版ワールドプレミアとふれこむ形での上映会で再見したとき、同じ映像ソースから全く異なる編集と映像処理によって、およそ別物と言える作品を見せられ、驚いたことがある。

 そのとき大木監督に、「映画は一般にライヴ表現だと思われてないから、この作品は、同じ映像ソースを使いながらも、上映する度に編集や映像処理を変えて、全く同じものは、二度と存在しないライヴ映画ということにしてみたらどうか。タイトルもちょうど『ルネサンス』だし…」と言って、興味を示してもらった覚えのある僕としては、その後この作品が決定版という形をとどめないままに上映されているという噂を聞くにつけ、一人ほくそ笑んでいる。そして、映画とライヴというものについての問題意識を顕著にしている、最近の大木監督の傾向が大いに気にもなっている。


 大木監督は今回、まさにライヴ・パフォーマンスそのものに参画し、自らも含めて映像に記録するというストレートな形で、この課題に挑んだわけである。注視されることを拒んだ映像に付き合わされながら、正直なところ大半をやれやれといった気分で眺めていたのだが、最後まで見届けると面白いことに、脱日常的な時間と空間に身を置いた後に感じるような、ある種の観念性とともに訪れる精神と感覚の高揚を覚えていた。

 これは、ひょっとすると愛知芸術文化センターでのアート・パフォーマンス・ステージそのものに立ち会った人たちが感じていたものと近いものだったのではないか、と思ったときにライヴ・パフォーマンスの記録映像としては、実に興味深いと感心させられた。映像の情報としては、当日のライヴをおよそ忠実には伝えないでおいて、観終えた後に、そのライヴに立ち会った者が得た感情に近いものを追体験させる記録映像だとすれば、記録映画の手法として極めて斬新だと言える。

 しかし、そういった点での興味深さとは裏腹に、この作品が技術的に採った手法という面では、かなりの物足りなさを覚える。平家琵琶の響きやコントラバスの弦の震えといったものに対して、音というものが空気の振動であることを表現しているとでも言わんばかりにキャメラが振動したり、音楽は音の重なりであると言わんばかりに映像を二重三重にオーバーラッピングさせているのは、面白いと言えば面白いのだが、いささか浅薄に見えてしまうのだ。なぜ、そう見えるのかというと、かつて『遊泳禁止』や『ターチ・トリップ』を観たときに感じたような、テンションを感じ取ることができなかったからではないかと思う。


 以前の大木監督のそれらの作品には、撮るということに対する緊張感が、いい意味でのアマチュアリズムとして宿っていたような気がする。そこには、キャメラを手にする大木裕之が個として対象に向かい、それとの関係性を撮ることで切り結ぶという、パーソナルな緊張感があったように思う。しかし、『HEAVEN-6-BOX』以降、顕著になってきた傾向として、個として向かう関係性よりも場の持つ関係性をすくい取る方向に大木監督の関心と撮影現場の状況が変わってくるなかで、個として向かう関係性という面では、実際に彼自身のテンションが落ちてきてしまっているのではないかという気がする。そして、その頃から作品が過度にコンセプチュアルに、変に、いわゆる実験映画的な方向に退行してきてしまったように思う。

 この作品『3+1』というタイトルにしても、名古屋・沖縄・高知+ライヴ公演という映像ソースだという説明の仕方がされたりしたが、僕には、『優勝-Renaissance 』で強調された数字“4”へのこだわりのように思えた。そして、上映会のチラシに“四国”とか“死国”“4”と書きなぐっていたことを想起した。“4”があっての『3+1』で、その“3”とするための名古屋・沖縄・高知ではないのかと思ったのだが、だからといって、それが何なんだという気になってしまう。なるほどと思わせるものが作品に宿っていたようには思えないので、そのことを面白がれないで、浅薄だという印象を持ってしまうのだ。

 また、時おりキャメラの動きが音の響きに同調した動きになってみたり、キャメラの動きが描き出す光の残像のラインや画面の色構成の具合がライヴシーンを映したものでありながら、まるで抽象絵画の作品に見えたりすることがあっても、そこにライヴ感覚のインプロヴィゼイションを感じるよりは、不定形な恣意性を感じることのほうが多かった。思うにそれは、この夜のライヴ・コラボレーションが、平家琵琶やコントラバス、ギター、ダンスとさまざまな表現の仕方をしていても、大きな括りでみれば、様式美と脱様式をテーマにした試みだという気がするなかで、大木監督は、はなから様式の外にいるからではなかろうか。


 一般にある表現が美を志向すると、そのなかで洗練され、様式へと向かう。そして、ある種の安定とともにやってくる停滞が支配的になってくるにつれ、脱様式の試みがなされる。しかし、それは当然のことながら、様式美をある程度なし得る者にしかできない試みなのである。そういう点では、はなから様式美の外にいる大木監督には、脱様式の試みというのは馴染まないのではなかろうか。そこのところが、大木監督のこの作品におけるさまざまな試みが、ライヴ感覚のインプロヴィゼイションと感じさせるよりも不定形な恣意性としか感じさせない一番の理由であるようにも思える。

 それならば、この作品を見届けた際に、当夜のアート・パフォーマンス・ステージそのものに立ち会った人たちが感じていたものと近いものを伝えていたように感じたのは何故だろうか。脱日常的な時間と空間に身を置いた後に感じるような、ある種の観念性とともに訪れる精神と感覚の高揚というものは、確かに宿っていたような気がする。しかし、考えてみれば、脱様式というのは、大木監督に馴染まないものであるが、脱日常性というのは、逆に最も大木監督に親しみのあるもので、ある種の観念性とともに訪れる精神と感覚の高揚というものは、まさしく大木監督の撮影スタイルそのものなのだから、当然と言えば、当然のことなのかもしれない。


 大木監督は、上映後の舞台挨拶のなかで、情報としての映像やそれを読み解くことによる、作り手と観客との間のコミュニケイションといったものに、自分は余り関心がないと語っていたが、おそらくは、画面を注視することを拒んでいるとしか思えない映像のことを指しているのだろう。そして、映像情報よりも視覚効果として映像が果たす役割を、例えば、音楽が聴衆に何かを伝えるような形で実現することを目指しているのだと思う。そして、映画が音楽のような形で果たす、観客との間のコミュニケイションという問題には、強い関心を持っているようだ。だからこそ、そこにライヴ感覚をできるだけ取り込みたいということなのだろう。そのような映画というのは、僕自身は好みでないが、それはそれで興味深く、大いに関心を惹くところではある。しかし、それなら、なおのこと大木監督は、はなから様式の外にいるようなスタンスではなく、様式という問題にきちんと向き合って映画を撮らなければいけないのではないかと思う。この作品がキャメラの対象としたライヴ・コラボレーションに感じる脱日常性と脱様式という問題によって、図らずも大木監督の志向する映画とその課題というものが浮かび上がってきたように思われる。
by ヤマ

'97.10.10. 山形国際ドキュメンタリー映画祭メイン会場
(山形市中央公民館6Fホール)



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