『スウィート・ムービー』(Sweet Movie)
監督 ドゥシャン・マカヴェイエフ


 1974年に10年後世界のメタファーとしてマカヴェイエフが描いた近未来図の戯画とそれを丁度10年前の過去としてみる時点で出会う時、この作品は何を語り掛けてくるのであろうか。半ば伝説的に、そのスキャンダラスな登場とともに謳われた映像の過激さ自体は、20年の歳月を経てなお過激であるとまでは、もはや言えない気がする。そこには、現代のメディアがいかに過剰刺激の泥沼に落ち入っているのかということがよく現われている。しかし、当時最大の売りの部分であった過激さが相対的に退潮してくるなかで、過激さとは少し違ったものとして認識できる不快さ、言い換えれば、不快さの総てが過激なグロテスクさに起因するものではなくて、そこから離れてなお残る不快さがあるということがより明瞭になってきたのではないかという気がする。

 観て三か月あまりたつ今、けっきょく一番印象深く残っているのは、一つにはソヴィエトが連邦崩壊前ようやくにして正式に認めた「カティンの森・虐殺事件」の泥まみれで掘り出された虐殺死体のニュース・フィルムであり、それが糞まみれのスカトロ・オージーや砂糖まみれのセックス、チョコまみれの入浴といった映像との相同性によって強調されていたこと、もう一つは船首を飾る巨大なマルクスの顔に吊されたビニール袋で作られたひとしずくの涙である。

 前者について言えば、虐殺事件を語るものに限らず、人間の引き起こす悽惨で愚劣な悲劇をニュース・フィルムで眼の当りにすることは、例えば今はやりの環境破壊の映像や先頃の湾岸戦争報道などにも見られるようにそう珍しいことではない。それらはこの作品のなかに挿入されている「カティンの森」と同じことで、けっして愉快ではないが、もはやショッキングな映像でもないという受け取られ方のほうが多くの者の正直なところではないだろうか。それに比べてスカトロ・オージーの映像などはかなり多くの観客の顰蹙を買うのであろう。しかし、より顰蹙を買うべきものはどちらなのか、それに気付かない人間の姿はまるでチョコまみれになって陶然として悶えているCFガールのように滑稽でグロテスクな存在だということだったのではなかろうか。実際、この映画を観て、マカヴェイエフのそういう指摘に対して自分は違うと言い切れる者はあまりいないだろうし、むろん僕もそうは言えない。誰かが何かを非難する時、何かのほうを問うだけで誰かのほうには目を向けようとはしないということはあまりにも多いが、誰がこの作品をグロテスクだという点で非難できよう。誰かは今の社会と言ってもいいし、今の良識と言ってもいい。そのことは、作品がグロテスクさを露骨にすればするほどに、不快感を煽れば煽るほどに強いインパクトを持ち始めるのである。

 後者について言えば、マルクスの巨大な顔像を船首に持つ『サヴァイヴァル号』とは即ち人類の生き残りを約束するイデオロギーとしてマルキシズムを掲げて進む国ソ連であろうが、ソ連が自国の人民や東欧諸国や他の地域の社会主義国に対してやっていることは無邪気な子供達をマルキシズムという甘い砂糖菓子で誘惑して殺戮するようなものであると言っているわけである。そんなことがマルキシズムの名の許に行なわれてよかろうはずはないが、船首に取り付けられてしまったマルクスは、外してもらえることもなく、涙を流すほかはない。

 クレイジーなアヴァンギャルド・カルト映画と呼ばれるこの作品の主題がそのような形で浮び上がってくる時、クレイジーなアヴァンギャルドというのは、全くの見当外れだということになる。狂気や前衛とは程遠い、むしろ健全で、本質的な意味での知の本流を行く者の持つ価値観の提示する世界観がそこにある。その描くところの近未来図が、もし仮にクレイジーであるとするならば、クレイジーなのは描き手ではなくて、そういう近未来しか描き得なかった現在のほうにこそ、その責があると言わねばならない。しかし、マカヴェイエフの人類の未来に向ける眼差しは、そんなに悲愴でペシミスティックではなかったのではなかろうか。『サヴァイヴァル号』の行状は、あばかれて警察の知るところとなっただけでなく、まるで20年後の東欧の開放を予見するかのように、殺されたはずの子供たちが次々と蘇生したし、とりわけ人間存在の根源とも言うべき性に対する彼の眼は、馬鹿馬鹿しいほどに陽気で明るい。ヴィルヘルム・ライヒの思想の正邪はともかく、それに対する共鳴を育てたであろう彼のセックス観には、ライヒのような観念性に先行して、もっとプリミティヴな原始共同体的な素朴な開放感があるような気がしてならない。
by ヤマ

'93. 2.27. 銀座シネパトス2['92.10.14.]



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