『暴走機関車』(Runaway Train)
監督 アンドレイ・コンチャロフスキー


 この作品、黒澤明の原案によるとあるが、確かにいかにも嘗ての黒澤作品に相応しいアクの強いキャラクターによるゴツイ男性的な映画である。昨今はやりのソフィスティケイトされた映画の観せ方と逆行するこの作品のスタイルは、それゆえに却って新鮮だ。主演のジョン・ボイトは、もう少し下品さが加わればもっと良かったとはいえ、あまり彼のイメージではないこの孤独な野獣のような役処を力演しているし、ジョン・P・ライアン演ずる刑務所長は憎々しい敵役ながら、最後には自ら男の戦いの場に降りて行った末に敗れるというのが潔い。この凄絶な男の戦いを見届ける男未満の若者の存在というのも、いかにも黒沢らしい人物配置だが、ただ一人取り残された機関助手が女性であるのは黒澤的ではない気がする。黒澤作品なら子供、それも男の子ではないかと思うし、そのほうが作品の人物配置としてもキチッと決まるように思う。
 ところで、この映画がスリリングな状況のなかでの男の戦い(相手は刑務所長と暴走する機関車)を観せるだけの作品に留まらないのは、主人公がヒーローになっていくプロセスがきちっと描かれているからである。主人公のマニーは最初から囚人たちのヒーローとして登場するが、それはあくまで囚人たちにとってのヒーローに過ぎない。彼が囚人たちの思い入れほどの人物ではなかったことは、クライマックスにかかる前場面において露呈する。つまり、マニーとても囚人たちが思っていたような、己の力のみを信じ、決して泣き言を言わず、不屈の闘志で不可能に挑む男ではなかったのである。ここでマニーは一旦、ヒーローの座から転落する。しかし、この一旦転落したところから彼の真の英雄伝説が始まる。そして、今度は本当に囚人たちの思っていたとおりの英雄になってしまう。しかも、それ以前の彼にはなかったであろう行為、つまり最後の力を振り絞って、若者と機関助手の命を救うために機関車から貨車を切り離すという、自分の利害を越えた善を為すのである。このダメ押しによってマニーは、転落からの復権のみならず、囚人たちのヒーローから観客・作り手をも含めた人々にとってのヒーローにまで一気に駆け上っていく。古典的な作劇法だが、こういったスタイルの作品には実に相応しく、また効果的である。ラスト、荘厳な宗教歌曲をバックに雪風のなか、機関車の屋根に仁王立ちになって突き進むシーンは少し演出過剰の気がしないでもないが、ロングのカメラで捉えたその映像はなかなか絵になっていて、余韻も残るので許せる気がする。コンチャロフスキーの演出は『マリアの恋人』でもそうであったが、一歩誤ると安っぽくなってしまう境界線辺りでかろうじて踏み止まっているような危なっかしさがあって心許ないところがある。とはいえ、黒澤一流のダーティー・ヒーローの世界をその力強さと緊張感を失わずに作品化し得たのはかなりのものだ。今や黒澤にはこういった作品は撮れまいが、この原案を持った当時の彼によって映画化された作品を観てみたかったと思う。
by ヤマ

'86. 8. 7. 松竹ピカデリー



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