『マリアの恋人』(Maria's Lovers)
監督 アンドレイ・コンチャロフスキー


 この作品のヒロインの名がマリアなのは、かなり象徴的なことである。イヴァンがマリアに対してだけ不能者になってしまうのは、人肉を喰って血まみれになった鼠に忍び寄って来られた恐怖の記憶に象徴される戦場の凄絶な現実からの唯一の逃げ場として、イヴァンがマリアへの思いと憧憬だけを心の救いとしてきたことによるのであろう。つまり、イヴァンの心のなかで、マリアは、実在のマリアから救いの聖母マリアへと昇華されてしまったのである。それゆえ、恋敵アルの眼前で焼けたコンロに手をくべるほどの熱情でもって愛しながらも、肉体でもって彼女を愛することができない。愛する妻にだけ不能になる夫の哀しみと絶望を、ジョン・サベージは、抑えた演技のなかに、時に激しさをもって見事に演じている。マリアを愛しながら、アルに対して妻を連れ去って行っていいというしかないイヴァンが自身への怒りを叩きつけるように、手を火にくべるシーンは凄じい。一旦はマリアを諦め、他の女と婚約しながらも、その披露パーティーで婚約を解消し、マリアへの思いを吐露しないではいられなかったアルも、イヴァンのその迫力の前には、たじろぐしかないのである。

 一方、マリアもイヴァンに対する深い思いとともに彼の苦悩を知りながらも、自身の満たされぬ思いに苦しむ。彼女のその苦しみを自慰行為の目撃という形で眼の当りにしたイヴァンは、居たたまれず、遂にマリアの前から姿を消す。イヴァンの去った後、マリアは一度だけ、流れ者の歌唄いのクレランスによって肉体だけの満足を与えられるが、彼に誘われながらも、ついて行こうとはせず、イヴァンを待ち続ける。(マリアが彼の誘惑に乗るきっかけになる、コンチャロフスキー作曲、キャラダイン作詞の歌がなかなか魅惑的である。

 このように、心で結ばれながらも、現実には一緒に暮せない男と女の物語となれば、同じナスターシャ・キンスキー主演のパリ・テキサスを思い出す。大きな眼と大きな口のナスターシャは、かつての美貌は失ったが、一児の母となってから後、これだけ男の心を捉えて放さないほど、偶像化されるのに相応しい神秘さと観念性を持ちながら、同時に偶像だけに終わらない生活臭や生々しさをも体現し得る数少ない女優になった。この作品でも『パリ・テキサス』と同様、ナスターシャなればこそである。しかし、この作品のマリアとイヴァンは、『パリ・テキサス』のジェーンとトラヴィスとは違い、最後には結ばれる。クレランスとの唯一度のセックスで懐妊したマリアは、イヴァンからすれば、正に新訳聖書にあるヨセフにとってのマリア同様なのだが、そのマリアから戻ってくるよう請われ、さらにキリストの生誕において東方の賢人が現われた如く、父親の登場によってマリアの元へ戻るイヴァンは、やはりトラヴィスとは決定的に違う。そして、イヴァンの心の病の象徴である、彼が常に恐れていた血まみれの鼠を夢のなかで克服するということの暗示するままに、イヴァンはマリアと結ばれるわけである。

 しかし、この大転換をイヴァンの現実の克服のプロセス抜きに、夢による暗示だけで片付けてしまったのは、少々安易な気がするし、火にくべた手や鼠を喰わえるなどのどぎつい画面という難点からも『パリ・テキサス』には及ばないながら、演技陣の充実により、強くて脆い、脆くて強い、男と女の繋りは胸を打つ。それゆえ、少々安易だとは言え、最後には心身ともに結ばれる、そのことの喜びと掛替えのなさに認識を新たにし、共感させられる。映画とは、たとえストーリーや展開にリアリティーがなくとも、掬い取られた感情にリアリティーがあれば、充分、観客の胸を打つのだと改めて思った次第である。
by ヤマ

'86. 7. 8. 名画座



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