『カントリー』(Country)
監督 リチャード・ピアス


 この一年の間に『プレイス・イン・ザ・ハート』『ザ・リバー』そして『カントリー』と農業を背景にした、力強く戦う女のドラマを観た。『プレイス・イン・ザ・ハート』のサリー・フィールドは突然の事故で夫を失い、子供を抱えて孤軍奮闘するところから始まり、苦難の末、なんとか上手く危機を乗り越えた。その後に作られた『ザ・リバー』のシシー・スペイセクは、夫が出稼ぎに行っている間は、一人で頑張ったが、危機に対してということでは、夫婦で共に立ち向かった。しかし、当面の買収は避けられたものの、今後に楽観の期待のできる終りではなかった。しかも、『プレイス・イン・ザ・ハート』にあった、懸命の頑張りだけではなく、夫のメル・ギブソンはスト破りというダーティな仕事にも手を染めている。それは素朴な農民だった彼らの知らなかった、社会の仕組みを垣間見ることであり、同時に人間の営みとして、自らの家族を守るために味わった屈辱であり、生の痛みでもあった。ラストの農民の団結と決起には、『プレイス・イン・ザ・ハート』の成功と同様、いささか甘さがあることは否めないが、それまでの苦闘に迫力があるから、思わず共感せざるを得ない。そういった甘さは、ある意味では欠点なのかもしれないが、二作ともそれがなければ、救いも何もあったものじゃなく、やり切れない。善し悪しはともかく、こういったオプティミズムは決して無意味なものではない。
 『カントリー』が、これらの作品から比べると、ワン・ランク落ちるのには、いくつかの理由がある。『カントリー』のジェシカ・ラングは危機に際し、物理的には夫を失わないが、実質的には彼の逃避により失ったといえる。これは、ある意味で死別より過酷であったはずだ。しかし、彼女の苦闘は『プレイス・イン・ザ・ハート』のサリー・フィールド、『ザ・リバー』のシシー・スペイセクやメル・ギブソンのそれのように力をもって迫ってこない。それは、苦闘のディーテイルが具体的に肉体労働を伴って描かれないことや、困窮の現実が具体的でないことによる。農村と農業を舞台としながら、それを充分に活かせず、借金とその取り立ての問題に留めてしまった。竜巻は『プレイス・イン・ザ・ハート』にも出てくるが、『プレイス・イン・ザ・ハート』のそれが『ザ・リバー』の洪水と同様、農業とは、自然という圧倒的な力と闘う凄絶な事業であることを語るに充分な迫力と効果でもって描かれるのに比べ、あまりにも描写が弱い。破産した農家の農具がセリにかけられるところで、買い手の農民から「ノー・セイル」の合唱が起こるところは見応えがあるが、『ザ・リバー』にも描かれていて、しかも『ザ・リバー』のほうが、静かな迫力に満ちている。隣家の破産農夫の自殺といい、展開のなかで、全般に説得力やインパクトに欠けている部分が多い。そして、決定的なのは、危機に瀕するまでは、頼もしく力強かったのに、どうにも打開策が見つからないなかで、闘いを放棄し、酒に逃避した夫サム・シェパードの扱いである。最も肝心な時に道を誤った者の惨めさと悔恨が描かれるのではなく、また、その時に失ったものの掛替えのなさや取り返しのつかなさが描かれるのでもなく、最後に実に甘い展開として、妻たちから許される情けない男でしかない。現実的には、こんな風に簡単に許されるはずもない。こういった甘さというのは、容認し難い。前述のオプティミズムとは、その質を異にするものである。これでは単にジェシカ・ラングの引立て役に終わってしまい、夫の存在をそのようなものにしてしまうことで、ドラマのスケールが著しく卑小化してしまうのである。
 ところで、打開策の見当たらぬままに、酒に逃避した夫であるが、これは取り返しのつかないエラーながら、心情的には解る気がする。男には見通しの立たない闘いは続けられない。しかし、女は見通し抜きで、心情だけでもって闘えるのである。そこが女の凄いところで、見通しの立たない状況のなかでは、男は女にかなわない。見通しのつかない状況に、敢て見通しを立て得るか否かが、男に問われる力量であり、それでも見通しの立たないなかで、逃げ出さずに玉砕覚悟で頑張るのは、男の誇りである。見通しとか覚悟とか誇りとか、理屈の要らない女のほうが、やはり強いということだろう。このあたりのところに、もっと目を向ければ、また一味違った作品にも成り得たのであろうが、ジェシカ・ラングが制作にも加わっていては、サム・シェパードが只の引立て役になってしまったのは、残念だが、仕方あるまい。
by ヤマ

'86. 5.14. 名画座



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