『シルクウッド』(Silkwood)
監督 マイク・ニコルズ


 ただの女どころか、それ以上に取柄のない女が組合活動という公的な活動に打ち込み出して、それとともに人間としての魅力を増し、変っていく姿となれば、『ノーマ・レイ』を連想する。作品として『ノーマ・レイ』のほうが優れているのは、そのフォーカスを一貫してノーマその人の生き方に当て、基調を崩さなかったからであるが、この作品では、プルトニウムの問題、企業組織の問題(労働者の側も含めて)を取り込んでいくなかで、フォーカスの揺れもしくはボケがあることは否めない。しかし、それでも以前は何の取柄も感じられなかったカレン・シルクウッドがしまいには、「今は喧嘩はよしときましょう」と言えるだけの女に変り、あんないい笑顔を見せると、人間って捨てたもんじゃない、可能性って幾つになってもあるんだと素直に思ってしまう。しかし、カレンはその直後、殺されてしまう。後味が悪い。そういったところの怖さとか、またそれに対する怒りといったことが主題であるのなら、もっと違った作品の作り方があるように思う。
 また、『ノーマ・レイ』と比べて面白いのが、組合活動のなかで主人公が受けるプレッシャーの質の違いである。ノーマは、会社からプレッシャーをかけられ、同僚たちが協力してくれないなかで奮闘するのだが、カレンは、会社から以上に同僚たちからプレッシャーを受けるのである。ノーマの時の「どうせ負けるんだし、そんなことのために自分の首が切られるのは困るから、私は協力できない」といった態度ではなく、「あんたがそんなことをして会社がダメになったら失業してしまう、そんなことは止めてくれ、迷惑だ」という態度である。しかも、ノーマの組合を作ろうというのに比べ、カレンのプルトニウムの杜撰な管理の告発は、そのこと自体の重大さにおいて遥かにまさっているのに、抵抗感は、よけいに強いのである。人々の抵抗感というのは、そういうものかもしれない。
 しかし、それ以上に『ノーマ・レイ』の作られた '79年に比べ、 '83年は社会の管理化・右傾化が進んでいるという状況がありはしないか。さらに '83年当時におけるアメリカの失業問題の凄さなども思い起こしたりする。シルクウッドに描かれた舞台設定は、 '74年であるが、その辺りがかなり大きく作用しているような気がする。
 ところで、この『シルウッド』にしても『ノーマ・レイ』にしても、現実では僕らが失いかけている「人は、変り得るんだ」という夢を与えてくれるのだが、その第一歩は、常に一寸したきっかけから派生した行き掛かりというものが実に大きく作用している。シルクウッドの場合も組合の集会でチョコッと肘から先だけで手を上げたのがきっかけ。思えば、あの『ガンジー』ですらそうであった。彼が最初から大きな人間だったわけではないことが、行き掛かりのなかで次第に大きくなっていったことが、あの作品でも強く感じられた。行き掛かりが生まれた者は、幸いである。ガンジーですらそういった行き掛かり抜きには、あそこまで大きくなれたとは思えない。
by ヤマ

'86. 3. 1. RKCホール



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