『白夜』(Le Notti Bianche)
監督 ルキノ・ヴィスコンティ


 こんなヴィンスコンティもあるのかと見直してしまった。こういう映画も撮れるんだぞという戦略的な形で作られた作品を観て、その通りに感じたのだから、言わばヴィスコンティの思う壷にはまったわけだ。

 ヴィスコンティといえば、重厚でどちらかというと鬱陶しいというイメージがあるのだが、この作品は、程よい湿度と仄暗さにしっとりとした味わいを保った佳作である。まるでハリウッド映画のような悲恋物語であり、素直な笑いを擽る場面もある。しかし、まさにハリウッドばりだと思った途端、今度は逆にどうしてもアメリカ映画にはならないヨーロッパ映画の趣に満ちていることにも気づかされる。

 悲恋物語の本筋には関係のない貧民の生活を垣間描いたりするなどということは、ヴィスコンティの背伸びのような形での社会性へのこだわりとして若気の至りのようにも見えるのだが、最大の違いはそんな社会性へのこだわりなどではなく、人間の心への眼差しの違いである。ハリウッド映画のなかの人物たちは、概して心理の動きが単純で判かりやすく、葛藤も素直に葛藤として描かれ、あくまで物語の展開のなかで現われてくる。しかし、『白夜』において最も重視されているものは決して物語の展開ではなく、またそのための心理描写でもない。ゆらめく心の動きの表現の仕方そのものなのである。

 その点、マリオにしてもナタリアにしても実にその心のゆらめきが微妙に捉えられており、殊にナタリアを演ずるマリア・シェルの瞳のゆらめきには魅了されてしまう。彼女の演技の微妙さを女優としての魅力に留めず、女の心のゆらめきとして表現し得たところなど、感心させられる。

 また、この作品の印象的な場面の一つであるダンス・ホールのシーンでは、ほほえましい笑いを誘うなかに圧倒的なダンス・シーンが出てくるが、そこにはアメリカ的な屈託のないエネルギーの放散ではなく、何やら内に篭った異様な熱気が感じられる。そうした幾つかの特長を追っかけてみると、この一見ハリウッド風の作品が実は極めてヨーロッパ的な作品であることに気づく。

 それにしても、このようなヴィスコンティを観ると、一連の大作ではない彼の作品群を観てみたくなる。
by ヤマ

'86. 7. 2. 県民文化ホール・グリーン



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