『蜘蛛女のキス』(Kiss Of The Spider Woman)
監督 ヘクトール・バベンコ


 作品を観る前に知った設定から、例えば井上ひさしの短編小説『合牢者』のようなテーマの作品か、或は『アナザー・カントリー』に垣間見えた問題を正面に据えた作品のようなものを予想していた。つまり、自己の利害のために操作的に結ぼうとした人間関係が、まさに人間関係であるが故に起こる利害を越えた感情の発生とそれによって生じる心の葛藤、そして、さらには、スパイ行為の強制といった形で人間を、その心を無視して道具として扱う権力の嫌らしさとか、それに操られてしまう人間の弱さや哀しさといったテーマであるか、或は、自由や平等を理想として闘う戦士の自負がありながら、同性愛ということについては偏見ないし差別感を自分が持っていることに直面させられ、自身の内に起こった混乱と動揺のなかで、自らの限界を知り、変わっていく戦士の姿といったものが描かれる気がしていたのである。勿論この作品には、そのいずれもある程度描かれているが、実際に観てみると、そういった第三者的な視点よりも、ウィリアム・ハート扮する同性愛者モリーナにより深くコミットした視点から描かれている。これは、獄中でモリーナがバレンティンに語る映画の物語そのままに、モリーナの恋愛映画なのである。しかも二重構造として描かれた劇中映画どおり、モリーナが愛に殉ずるラストでこの作品も終わる。

 そのことが示しているように、彼の死は、反政府活動に目覚めた者の戦士としての死では毛頭ないし、また、警察の報告書に記されたような覚悟の死ですらない。敢て言えば、モリーナは覚悟していたというよりも、死を望んでいたのであろう。母親の後のことを知人に頼んで行ったことに併せて、途中で警察の尾行を知りながら予定変更をしなかったところなど、死を覚悟していたというよりも望んでいたという気がしてならない。死をもたらした者は、彼が予想していたであろう警察の側ではなく、活動者の側であったが、そんなことは彼自身にとっては、どちらでも良かったのである。覚悟というものは相当に冷静で理性的なものであるから、モリーナの行動が、もしそのような覚悟を伴ったものならば、目的遂行の観点からは、予定変更しないことがいかに愚かで危険なことであるかの判断ができたはずである。しかし、モリーナにとっては、活動者とコンタクトをとることが最大の目的ではない。彼にとって意味があるのは、愛するバレンティンのために危険を顧みず行動する犠牲的な献身のほうである。従って危険度が高いほど、恍惚感は増すのである。そこのところのいきさつを図り兼ねる警察の側からは、ミイラ盗りがミイラになったごとく反政府活動に感化された俄か闘士の覚悟の行動としか映らなかったのも無理はない。

 殉ずるということについて言えば、モリーナが獄中で語った映画のなかのレニの殉愛は、結果として訪れた死であったのに比べ、モリーナの場合は、かなり意識した殉愛である分だけその純度は、むしろ高い。同性愛というのは、そういうものなのかもしれない。この作品で言うならば、レニの恋愛以上にモリーナのバレンティンに対する愛には先がないからである。むしろ、この先あるのは、まさにバレンティンがモリーナをしてこれほどの思いにまで到らせた、キスの後の言葉「もう二度と身を汚さないでくれ」に反してしまう生活だけなのである。彼は美しく死にたかったのではなかろうか。

 今迄にも同性愛を扱った映画は幾つもあるが、それらは大抵、まさに扱ったという形であり、同性愛の感情そのものにこのようにコミットして、恋愛映画といえるだけの作り立てを為し得ている作品は珍しい。「同性愛を美しく描いた」というような形容は良く使われるのだが、その背後には、同性愛は余り美しいものではないとの前提がある。しかし、この作品は、そういった前提抜きに、同性愛がどうといった形ではなく、一人の男の感情と行動とを描いているのである。しかも、あくまで恋愛映画として...。
by ヤマ

'86.10. 3. 名画座



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