『白い町で』(Dans La Ville Blanche)
監督 アラン・タネール


 街角のバーでローザという女と「時を逆行する時計」に出会ったポールは、それまでの彼の生とともにあった時の流れから離脱するかのように、戻るべき船を捨て町に残る。そして、8ミリで写した街や自分のフィルムをスイスの妻エリザに送るほかは何もしないで、ローザと交わったり、町をぶらついて過ごしている。この明らかなる日常性への拒絶によりポールは、日常性からは解放されるが、その解放が自由への出発とはならない。自由とは解放によって与えられるものではないからである。以前『イージー・ライダー』『ファイブ・イージー・ピーセス』を観た時に、何物にも捉われない自由というものを保証するのは、唯一の拠るべきものとしての自己への信頼であるというようなことを記したが、ポールには自己へのこだわりはあっても信頼がない。そのために何物にも捉われないというに相応しいくらいに、何事にも執着を見せなかったとしても、それは、自由と呼ぶことのできない無気力と倦怠に過ぎない。自由の本質は、精神の活性にある。日常性という桎梏に顕著な、精神の活性を阻むものからの解放が自由への出発になることはあっても、それが直ちに自由を保証す るわけではない。
 ポールは、この白い町にいる間中、自己の解体作業ともいうべき様々な問いかけをいつも自分のなかに繰り返す。エリザへの手紙にしても彼女への手紙というより、彼にとって書いた時点でもう既に意味を終えた、自己の解体作業の一つなのである。また、ポールは、自身の視界に入るものを取り留めもなく8ミリフィルムに記録していく。文脈は必要ない。これも撮ること自体に意味があるという作業である。そういった手紙やフィルムを妻エリザに送るというのは、何を意味しているのであろうか。このように作為を極小化した自己表現は、通常、当人の思い入れだけに終って、コミュニケーションの拒絶を招くだけである。それに対して「戻ってくるなら今すぐ帰って、でなければ戻らないで」という意味深長な手紙をよこすエリザ。タネールの偶像化と見るか甘さと見るか。
 結局ポールは、この白い町で求めた自己の解体にも自由の獲得にも挫折し、「分からないのは、以前と同じだ」と手紙にしたため、白い町を列車で出ていく。少し思わせ振りではあるが、そうした挙句、再び日常性の桎梏のなかへ帰っていくのであろう、多くの凡人と同じ様に。日常性からの離脱は、誰もが抱く願望であるが、日常性への抵抗は、結局、倦怠と挫折という敗北に終るのが常である。
 それにしても、この作品の持つ倦怠感は、たいしたものである。かつて映画を観てこれほどに倦怠感に同化させられたことはなかった。ちょうど映画と同じ様に、旅先の町で何日かぶらぶらしている時に観たからかもしれないが・・・。

推薦テクスト:「A46 -Cinema Review-」より
http://www6.plala.or.jp/khx52b/movie/file_a/o0002.html
by ヤマ

'86. 3.18. 大森キネカ



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>