『アントニオ・ダス・モルテス』(Antonio Das Mortes)
監督 グラウベル・ローシャ


 この作品の面白さは、ある意味でごった煮の面白さである。ブラジルの民族的伝説をベースにして、ヨーロッパ映画的抽象性に西部劇の野趣とマカロニの生臭さを盛り込んで、第三世界らしい社会闘争的主題が、南米のリズムと伝誦という時間の蓄積を感じさせる歌とともに語られる。この欲張り過ぎでしかも無節操にも見られそうな様々な映画的興趣の取り込み方には、いかにも第三世界の新興エネルギーのパワーが感じられるのだが、それらが作り手の思い付きとして断片的に現われるのではなく、混然一体となって一つの世界の構築を果たしている。それは、カオスの世界の持つ魅力とパワーに通ずるものであり、決してただのごった煮に留まってはいない。

 物語では、信徒とは民衆、聖女とは指導者、大佐とは地主(有産階級)であるとのことわりが予めなされるが、この前提に立てば、コイラーナはカンガセイロという民衆のヒーローであるとともにさしずめ、いわゆる活動家ということになる。そして、アントニオは真の敵の認識に目覚めるまで殺し屋としての自身の完結のなかだけで行動し、負の行為を積み重ねたダーティー・ヒーローであり、目覚めた後は負の意識の凝縮をバネにヒーローへと転換して行くアウトローである。このパターンは、西部劇にもヤクザ映画にもよく見られる。その場合、目覚めたヒーローの最後の戦いにて行動を共にするヒーローにはなれないもう一人の男の存在というのがある種の定石であるが、この作品でも教授がアントニオと共に二人だけで最後の戦いに挑む。ただこの作品では、信徒は民衆、大佐は有産階級と社会的枠付を作り手の方から明らかにしているのだから、それからすれば、アントニオや教授にも同じように社会的枠付が背後にあるわけである。それ故、教授はただの男ではなくて、教授という知的職業にある男でなければならない。

 権力に取り付かれるほどに次第に視力を失っていくということで、権力者の象徴的姿を体現している大佐を倒した後、さすらうように去っていくアントニオと残る教授。そのアントニオの姿は、突然、現代の日常的風景(アスファルト、ガソリン・スタンド、トラック)の中に現われる。さすらうような彼の歩みはそのままで、まるでその延長にその風景があったかのように。この作品が伝説を借りた寓話のスタイルから、鮮やかに現実性を突きつけ、真の敵、より巨大な倒すべき真の敵がこの現実の背後にいることを迫ってくる瞬間である。

推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/e/g436.html
推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1796509805&owner_id=4991935
by ヤマ

'86. 4.24. 県民文化ホール・グリーン



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