某サイトで見つけた びっくりテクスト
****さん


 この映画は、イラストレーター和田誠の、初の実写監督作品である。この作品が作られた1984年は、俳優の伊丹十三が「お葬式」で監督デビューしたこともあり、他の業界から映画監督に進出したいわゆる異業種監督が注目されたものだ。伊丹や和田誠に共通するのは、もともとが演出の方法にも目を向けたディープな映画フリークだったということだろう。それだけに初監督といっても、和田誠は堂に入った演出を見せているのである。
 冒頭に終戦後焼け野原となった東京を写し、主人公・坊や哲が登場する。そして豪雨の中での、初めての賭け麻雀へと彼がなだれ込む展開はテンポも快調で、まったく飽きさせないのだ。阿佐田哲也原作による欲望渦巻く賭け麻雀の世界を描きながら、青春映画として全体をくるんだ構成が非常に上手い。麻雀を知らなくとも充分楽しめるのだ。現に私が楽しめたのだから。

 ストーリー・テリングとしての面白さは、原作に何歩か譲るだろうが、画面の端正さは、なかなか見事なものである。原作に登場する、あの一種独特の異様な存在感のある連中を画面に再現し得たのは、並々ならぬ力量といえるだろう。とはいえ、原作の愛読者にとっては、ドサ健が甘過ぎたように思えるし、坊や哲に裏芸の手ほどきをするオックスのママや哲の牌さばきが少々拙く見える(らしい。これは麻雀を打てる者の意見だ)。しかし、そういう細かなところが惜しいところとして写るのは、前述したがそれだけ全体的によく出来ている証拠だと言っても言い過ぎではないだろう。
 それにしても、この物語に登場する人物達の魅力の何と妖しいことか。彼らの従事していることは、どの人物にしても賞められたものではないものばかりである。浮浪者かその一歩手前、ヒモ、女衒、そして、彼らを繋げているバクチ。彼らは、その互いのネタを狙って凄絶な賭博にのめり込むのだ。一見、そのエネルギーの源泉は欲とも見えるが、実のところはそうではない。彼らは皆、それぞれに欲の塊の人間にしては、余りにも透明な魂を持っている。しかし、それは世間で善人だとか優しいだとか言われるようなものではない。そんなものは、彼らにとって只の甘さに過ぎず、バクチ打ちとしては、最も見くびられるものであろう。彼らの至った魂の透明さとは、言ってみれば、総ての甘さをそぎ落した、本当に信じられるものは己しかないという、ギリギリ勝負の積み重ねの中で向き合った自分自身を通じて、人間というものの真実を体で知ったことなのである。現実の世界では、バクチ打ちが皆それを知り得るかどうかわからないが、バクチ打ちの行き着く先の透明感というのは、そういうものではなかろうかと思わせる。
 彼らは勝負には徹底的にこだわるが、金そのものにはそんなに執着していない。大金ないしはどうしても失いたくないものを賭けるのは、それによって勝負の価値を高めたいからである。彼らが非情なまでにその勝負に賭けるのは、欲ゆえではない。そういう大勝負の中に身を置くことに取り付かれているからに他ならない。そういうバクチ打ちが女衒の達の言うところの 「本物」 なのである。つまり、大いなるロマンチストとでもいうべきであろうか。非情な世界を描きながら、この物語がロマンを感じさせる所以はそこにあると思うのだ。


 真田広之は好青年だが、若者特有の青臭い欲望を持っている坊や哲を好演している。彼のライバルとも言える、麻雀に勝つことに全てを賭ける、鹿賀丈史のドサ健も魅力的だ。さらに出色は坊や哲と組んで大きなイカサマ麻雀をする、老獪なプロ雀師・出目徳を演じた高品格の存在感である。坊や哲と一緒に最初の手で上がってしまう「二の二の天和」というイカサマをコンビで作る場面には、彼のとぼけた味わいが活かされていてひじょうに良い。監督のキャラクターに対する狙いが見事に的を得て、俳優たちもそれに充分に応える演技を披露しているのである。ドサ健に物のように売り買いされる女に大竹しのぶ、坊や哲に大人の世界を垣間見させる夜の女を加賀まり子が演じ、作品に彩りを添えている。和田監督は場面転換に「ワイプ」といって、後から来る映像が前の場面をぬぐい去っていくような手法や、非常に古典的な合成シーン等クラシックな映画の手法を意図的に使い、それをモノクロの映像に乗せることで、終戦直後という作品の時代性を引き出している。ラストの坊や哲、ドサ健、出目徳が、自分の雀師人生を賭けて戦う麻雀の場面は、ある種の活劇のような緊張感があって見ものだ。


こちらは僕の日誌:冒頭からのほぼ全文が第三段落以降に(苦笑) by ヤマ

'01. 8.11. 某所にて発見
('01.7/13にアップされ、現在は削除されてます)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>