江戸における「同志」集団の形成
不破数右衛門はいつ加盟したか

田中光郎

(1)はじめに

 不破数右衛門正種は、四十七士のうちでも人気者である。浅野長矩刃傷事件の頃には浪人していたが、特に許されて加盟し、吉良邸討入の際には大奮闘した。ところで、彼が「同志」に加わった時期はあまり明確でない。有力な説は元禄14年冬、大石初度の出府の際とするもので、ドラマなどでは長矩の墓前で大石が不破の帰参を許すという感動的な場面が用意されることになるのだが、残念ながら明確な根拠はない。
 もっとも、これは不破だけの問題ではない。実のところ、江戸にいた「同志」のほとんどがよくわからないのである。

 「同志」の成立は、赤穂開城時の大石と大野の対立に始まる。とにかく無事に開城しようとする大野派に対し、それでは納得できないとする人々が自発的に誓紙を大石に提出した(このあたりの事情は拙稿「赤穂城の政変」)。江戸にいた赤穂藩士で加盟できたのは、村松喜兵衛ら、勝手に赤穂に戻った者だけである。開城時までに参加しなかった上方の有志は、赤穂尾崎または山科にある大石のところに申し出ているが、大石が積極的に「同志」を募った様子はない。江戸にいた者について言えば、家老の安井彦右衛門・藤井又左衛門にすら声をかけていないらしい。わざわざ大石を訪ねれば格別、一般的には江戸の有志に加盟の機会はなかったのである。
 江戸にいた者は堀部安兵衛を中心にまとまり、と言いたいところであるが、『堀部武庸筆記』(以下『武庸』)によってみれば、少なくとも14年秋までは奥田兵左衛門(孫大夫)・高田郡兵衛以外を掌握していない。開城決定後に赤穂に着き、しぶしぶ大石に従った堀部らは、江戸に戻ったあと安井彦右衛門を在府有志結束の核にしようと目論むが、もちろん頼りにはならなかった。この頃には礒貝十郎左衛門と連絡があったが、それも絶えて、片岡源五右衛門ら近臣グループとも疎遠になっている。赤埴源蔵・富森助右衛門らも志はあったはずであるが、彼等との連携も確認できない。不破数右衛門とも接触はなかったようだ。
 本稿では、不破の加盟の時期を確認しながら、併せて江戸における「同志」集団の成立状況を考えてみたい。

(2)刃傷事件の直後

 元禄10年に浅野家を退身して播州亀山に移住していた不破数右衛門(この事情については拙稿「不破数右衛門と岡野治大夫の致仕」)は、元禄14年春には江戸にいた。本サイトでもしばしば触れている『宗玄時記録(仮)』(以下『記録』)によれば、刃傷事件のあった3月14日の夜、不破は浅野家の江戸屋敷を訪れている。片岡源五右衛門・多儀太郎左衛門・礒貝十郎左衛門・田中貞四郎・早川宗助に会って、「吉良屋敷の様子をうかがってきたが、上野介はまだ生きている。今夜切り込んで討ち果たされよ。私も譜代の者であるから先だって切り込みましょう」と勧めたが、同意しなかったので帰ったという。この通りだとすれば最初から「同志」的な活動をしていたことになるが、にわかに信じがたい。

『赤穂義人纂書』所収の『寺坂信行筆記』(以下『信行』)にも「巳春比は江戸に罷在候」とある。『赤穂義士史料』所収の『寺坂私記』(以下『私記』)はこの記事欠いており、後から挿入された可能性もある。『私記』にも「一両年已来当家浪人致候処、此節江戸ニ罷在」という記述は見える。

 『武庸』によれば、当初吉良の生死が分明でなかったが、生存していると聞いた堀部・奥田・高田の3人が吉良邸に切り込もうと家中を走り回って同志を募ったものの応ずる者がなかった、とある。他の史料に照らしても『記録』が14日の夜に吉良の生存が確認できていたというのは早すぎるし、片岡らが(嘗ての同僚とはいえ)一牢人に面会するほど暇だったとも思われない。不破にこういう動きがあったなら、同様のことを企てた堀部らと何らかの接触がありそうなものである。
 『記録』は不破の実父・佐倉新助(岡野治大夫)の周辺で成立したと考えられ、この父子に関してはかなり信頼がおけるものではあるが、この件は新助が直接関わったわけでもない。断定はできないが、『記録』の記事は誤りだと考えられる。あいまいな伝聞などによったために混乱したものであろう。不破数右衛門が「同志」として活動し始めた時期は、やはりはっきりしない。

(3)第一次大石出府と江戸における「同志」の連携

 不破の「同志」としての活動を考えるなら、武林唯七・倉橋伝助・前原伊助・勝田新左衛門・杉野十平次の動きを無視する訳にはいくまい。不破を含めた6人が「於浅草茶屋堅申合、盃迄取かわし」たと『武庸』にある。このグループを仮に浅草同盟と呼んでおく(拙稿「浅草同盟の深層」)。 浅草同盟が結ばれたのはいつのことだったろう。『武庸』はこの記事を元禄15年5月3日の書状と6月12日の書状の間においているので、その間のことのようにも見えるが、その時期に不破・武林は上方に行っているので浅草にいることはあり得ない。会合は二人が出発する15年2月までの事にあったと考えられる。

 浅草同盟の6人のうち、国許にいた勝田といちはやく戻った武林は、開城時からの「同志」である。前原と倉橋は定府、杉野も主君に従って出府していたため、加わりそこねていたと思われる。彼等が結集するのはいつ頃だろうか。
 勝田と武林の出府の時期は明確でないが、大石の江戸入りからそう遡らないように思われる。堀部らの出府要請に閉口した大石は、秋に原惣右衛門(潮田又之丞・中村勘助同道)、ついで進藤源四郎(大高源五同道)を江戸に差し向けた。堀部らはこの上方衆と相談し、特に硬派と認めた者たちと誓紙を取り交わそうとした。10月29日に呼ばれたのが潮田・中村・大高と武林だった。4人はその日の連判を拒絶したのだが、武林が他の3人と同じ扱いをされているということは、同じ頃に江戸に来たものと推定してよかろう**。大石が江戸に着いたのが11月3日。10日に堀部ら3人と会談する。同席していたのは、原・潮田・中村勘助、進藤・大高、大石に同行してきた奥野将監・河村伝兵衛・岡本次郎左衛門・中村清右衛門、そして武林と勝田であった。大石の供をしてきた訳ではなくとも、それに近い意味があったと思う。『江赤見聞記』(以下『江赤』)によれば、大石らが江戸に下ったため「今回は差し止めのために下ったのだが、急に事を挙げられては大変だ」と考えて江戸に出た者が多くあったらしい。そのまま江戸に残った者もあったとあり、勝田などはそのケースだと思われる。

 杉野が江戸にいたことは5月3日付原惣右衛門宛て書状(『赤穂義士史料』下)から明らかである。この書状自体は「同志」的活動の証拠でないが、原と接触があったとすれば、杉野の加盟はかなり早いかも知れない。
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 『私記』には「先名代として原惣右衛門ニ武林唯七を相添差下し」云々とある(『信行』にはこの箇所はない)が、他の史料と合わないし、この部分の記述は問題が多いので今は採らない。ただ、そういう感じを寺坂が持っていたとすれば、出府の時期が同じ頃だった為かも知れない。

 浅草同盟のメンバーが江戸に揃うのは、大石の第一次出府以降の時期と見るのが妥当であろう。ちなみに、大石らが帰った後の12月27日付書状(潮田・中村・大高宛)に「昨二十六日、安兵衛薩摩河岸へ罷越候て、武林・倉橋などへ参会申候。同志之衆中替事無御座候」とある(『武庸』)。勝田は同席していないが、前日に勝田が金を受け取った話を武林・倉橋から聞いているから(同日付原・大高宛、同書)、この時点で3人はグループで活動しているのだろう。また、原から片岡・礒貝グループと連絡するように言われているらしく(同上)、ようやく在府の「同志」が連携しはじめた様子が窺われる。

(4)前原伊助の誓紙

 元禄14年の末に、武林唯七・勝田新左衛門・倉橋伝助が「同志」内の小グループとして活動している。杉野十平次・前原伊助そして不破数右衛門の名は出ていないが、恐らくはこのあたりから「同志」としての活動が始まっているのだろう。
 前原伊助が加盟した時期については、『江赤』の記事がある。刃傷事件後赤穂には行かず、3月中に自分の一存で布売りの商売をはじめ、本所屋敷の工事中には日雇にまぎれるなどして敵方の様子を探っていた。そうこうして「巳の暮、内蔵助下向之節、初て申談候由也」とあるから、大石出府の頃に「同志」入りしたものと見られている。

 事情はもう少し複雑かも知れない。前原伊助が大石の帰洛後に神文を提出したことが15年1月17日付大高書状(『武庸』)から確認される。これは14年12月10日付の潮田・中村書状の中に「連判神文相済申候」とあるのを承けて、12月27日付江戸三士書状でそのことに触れたのに対し、大高が自分はまだだと言ったついでに触れられているものである。大高が何でそのことを知ったかは明白でないが、14年末頃の事だろう。
 『私記』にはこの時点の「同志」が@「巳の極月、山科内蔵介宅ニて神文有之面々」とA「此節江府ニ罷在候面々」、そしてB「外ニ判形有之分」に分類されている。『信行』だと異同があり、Bに相当するところが「一枚づつ銘々判形有之分」となっているが、メンバーは一致している。すなわち、堀部グループ(堀部弥兵衛・安兵衛父子、奥田兵左衛門・貞右衛門父子、高田郡兵衛)と木村伝左衛門、小河仁兵衛、前原伊助、不破数右衛門である。武林・勝田らを欠くこのリストが完璧でないことは確認のうえで、その意味を考えてみる。
 江戸から戻った大石が連判状を作成したことは、上述の潮田・中村書状などからも確認できるので、@の範疇については特に問題ない。その際に江戸にいた者がこれに参加できなかったのも当然なのでAも理解できる。問題はBである。これは、連判ではなく銘々が誓紙を出すという、@と異なる形式をとっていた。しかもそのメンバーは堀部グループが中心である。在府の「同志」が必ずしも神文を必要としていないにも関わらず、なぜBという範疇が生まれたのだろうか。ここで想起されるのが、上述14年10月29日の堀部らによる武林・大高・中村誘引である。微妙なところだが、この神文は堀部グループの主導で行われた可能性がある。

 大石に「同志」入りを認められた者ならば、必ずしもここで神文を提出する必要はなかったはずである。前原・不破は大石が江戸に来ている時点では「同志」入りできていないのではないだろうか。大石出府を契機として在府「同志」間の連携がみられるようになると、その周辺にいた浅野家牢人がそれに関連する動きを察知し、自分も参加したいのだという意思表示をする。堀部グループは誓紙の提出を求め、これにより「同志」入りが確定する。前原・不破が「同志」に加わったのは、大石が第一次出府を終えて山科に戻ったあたり、元禄14年末から15年初めにかけてのこととするのがよいと思う。

(5)過激派二人旅

 『武庸』に「同志」不破の姿が見えるのは、このあたりからである。
 吉良の隠居が認められたというのに、上方勢の動きはどうも鈍く、1月18日には大石から大工に喩えたのんびりした手紙(12月25日付)が届いた。江戸方では信頼していた高田郡兵衛が脱盟する。焦燥を感じた堀部安兵衛は、1月26日に書状を3通(大石宛、原・潮田・中村・大高宛、小山宛)作成し、私用で播州に向かうという武林唯七にこれを託した。その時に高田の脱盟の事情を説明し、上方に伝えてくれるように頼んでいる。唯七は二人の見解を聞き「此已後何人にても了簡相違の有之共、我々共は最初之存念に少も違変無之」という返事を得ている。
 もっとも、武林の出発がおそくなるということで、堀部は上述の書状を取り返し、1月30日付の大高宛書状ともども寺井玄達に頼むことにするのだが、この1月30日付の書状に「武林氏壱人道中は泊りゝゝも不自由故、幸望に付、不破氏誘引之下心にて候」とある。基本的には私事旅行ながら、堀部の焦燥を請け負った武林唯七の上方行きに、不破数右衛門も同行するのである。

 不破・武林が出発したのは2月中旬と思われる(『赤城義臣伝』は2月18日に作るが根拠はよくわからない)。江戸へ下った吉田忠左衛門・近松勘六とはどこかですれ違ったかも知れないが、不明(吉田らが伊勢神宮に寄り道をしている間か)。ともかくも2月末に京都に着いた(後述の通り、日付がはっきりしているのは大坂着の3月1日である。2月は小の月だから、京着は28日か29日であろう)。
 大高源五・潮田又之丞を訪ねたが、たまたま所用で大津に行っていて不在。まず山科に行って大石に会ったが「上方では延引に一決した。吉田・近松を遣わして堀部らにも納得させる。大高らも得心している」と聞いて、唯七は激怒した。「大高らが腰ぬけた上は対面しても無益、ただちに赤穂に罷り下る」と息巻くのを、不破がようようなだめ、大高の家に宿泊。翌日、帰ってきた大高に頭から「腰抜け」と悪口をあびせ「最初からそんなことだと思っていたが、化けの皮がはがれたな」などと、温厚な源五ですら堪忍しがたいほど。説得は試みたが「殊之外立腹、泪をこぼし、中々とかふ之聞入無御座」という有様であった(5月17日付大高・潮田書状)。
 不破・武林両人はそれから大坂に向かう。大坂着は3月1日(3月2日付武林書状、3月4日付原書状)で、不破は原惣右衛門宅に、武林は矢頭右衛門七宅にそれぞれ泊まった。大坂でも立腹はおさまらず、堀部にあてて吉田・近松に会うのは無用だと書き送っている。

 二人は3月4日に赤穂に着いた(4月10日付武林書状)。『記録』によれば、この日網干の多儀太郎左衛門方で在赤穂の「同志」と会議を持った。即時決行を説いたが聞き入れられなかったので、亀山にいる不破の父・岡野治大夫(佐倉新助)を訪ねる。「上野介を討つことは手の内にある」というので、治大夫がそれはどういうことか訊ねると、「上野介が谷中・感応寺に参詣するのがはなはだ手薄、二・三人が駕籠にかかり三・四人が警護の侍を防げば、自分たちと江戸の申し合わせた者だけ(浅草同盟の面々に堀部グループを加えれば十分?)でも可能だ」と、大変な計画を持ち出す。「御意見を」と言われて治大夫は「討つのは二・三人でも可能だろうが、それでは大石はじめ皆の志を空しくするのでよろしくない」と反対した。結局二人は承伏し、武林は赤穂に、不破は姉のいる丹波篠山に向かったという。唯七は病気の親を見舞って身辺整理をしたのであろうし、数右衛門の行動は『襯衣記』につながるものであろう。
 3月10日過ぎに大石から奥野将監に「数右衛門・唯七が血気にはやっているので意見してほしい」という書状が届く。そのころには唯七から治大夫に了解した旨の書状が来ていたので、そのことを申し送ったら大石も大層よろこんだということだ。
 ここの『記録』の記事は、いわば『武庸』の欠を補うものとして貴重であり、相応に信用してよいものと思われる。感応寺参詣時の襲撃を本気で考えていたか、また治大夫の説得に得心したものか、疑問は持てる。それ以上に重要なことは、この二人の過激派が大坂・赤穂の「同志」をまわって早期決行を呼びかけて断念したことが確認できた、という点 である。本稿の課題に即して言うならば、不破数右衛門が大石与党として行動していないという点も重要になる。俗説のように、大石が亡君の名代として数右衛門の帰参を許したとすれば、こんな行動はとれないだろう。大石の知らないうちに、ということもあるまいが、不破の加盟について大石の関与はさほど大きくないと思われる。

 書状ではどこに着いたか明示されていないので、従来は4日に京着とする意見が多い。しかし、道筋から行っても心理から行っても、大坂より先に京都に行くだろう。上述5月17日付書状でも、喧嘩別れをしたあとの唯七について「大坂・赤穂之同志之者共対談有之納得被申候哉」と心配しており、大阪経由で赤穂に向かったと考えられていたことがわかる。そもそも唯七は私用で播州に向かっていたのである。

(6)むすびにかえて

 結局のところ、不破数右衛門がいつから「同志」だったかということについて、決定的なことは示せなかった。ただ、江戸にいた「同志」の結集について大石の第一次出府のもつ意義や、上方における不破と武林の活動状況など、いくつかの点についての問題提起はできたと思う。残された課題はあまりに多くいちいち述べるにいとまがないので、『記録』からもう一つ逸話を紹介して、結びにかえようと思う。
 浅野大学の閉門御免、芸州へお預けという処置により、一党はいよいよ討ち入りに向けて動き出す。大石は大高源五・貝賀弥左衛門に命じて所謂神文返しを行わせる。この時、不破数右衛門は亀山の父のところにいたのだが、神文を受け取ると「内蔵助殿被成方至極御尤ニ候。此御手段大出来ニテ候。併拙者ハ此通ノ存念ニテ候」と言って、灰にして水に入れのんでしまった(言うまでもなく、一味神水の作法である)。大高・貝賀の両人も手を打って、「是モ又如此、是トモニ只今マテ両人」と言って帰っていったとある。いささか解釈しづらいが、やるだろうと思った、という感じだろう。もう一人が誰かは不明である。あるいは武林かも知れない。
 『記録』の信憑性に疑問をもつ向きもあるだろうが、こういう記載を読むといかにも本当らしく感じられる。いずれにしても、加盟の時期にかかわらず、不破数右衛門が最も熱意のある「同志」の一人だったことは疑いのない事実である。