赤穂城の政変
大石内蔵助vs大野九郎兵衛

田中光郎

はじめに

 赤穂事件については、既に数多くの書物が著されており、既に論じ尽くされた感がないでもない。しかし、一歩内容にふみこんでみると、通説とは違うことに出会い驚くことがしばしばである。ここでは、赤穂開城までの軌跡を、確実な史料によってみていこう。
 使用する主な史料は、次の通りである。

これ以外については、その都度参考文献等を示すことにする。

1 藩論の分裂

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城中で播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家肝煎・吉良上野介義央に切り付けた。この刃傷事件の第一報が赤穂に届いたのは、3月19日の早朝である。14日の夕方、申の下刻に江戸を発した第一の使者の早水藤左衛門・萱野三平両人によってもたらされたものである。引き続いて19日夜酉の中刻足軽飛脚で届けられた(『岡島』では早水・萱野が持参したように見えるが、ここは『一件』に従う)内匠頭の弟・大学長広の書状にも詳しいことは記されず 、ただ「札座」の儀を第一にするようにという注意が加えられていた。藩札の処理問題は、既に混乱が始まっていたので、この夜金策のために外村源左衛門(番頭)を広島(浅野本家)・三次(赤穂と同様広島浅野家の分家で、長矩夫人の実家)へ派遣した。(藩札は20日から額面の60%で正貨と交換する六分替えで処理されることになる。)19日深夜、第二の使者である原惣右衛門・大石瀬左衛門が長矩切腹の報を伝えた。

 最初の段階では、もちろん衝撃はあったであろうが、特に幕府の処置に対する不満などは見られない。しかし、3月24日までの間に事情は変わる。江戸家老からは吉良の生死についての情報を送ってこないが、もし吉良が存命ならばむざむざ城は明け渡せないとする意見と、ともかく事を荒立てないようにしようとする意見が対立するのである。前者の代表が大石内蔵助、後者の代表が大野九郎兵衛であった。(『江赤』)
 この対立については、大野の実弟・伊藤五右衛門(番頭)が三次浅野家に報告しており(『綱長』)、事実として認められる。伊藤の発言を三次浅野家の家臣が記録したところでは、大野九郎兵衛が「只今及兎角候儀、有之間敷候」というのに対し、大石内蔵助は「古内匠頭殿取立之城、今更引渡候段、誠不能是非仕合候」という。もっとも籠城は思いも寄らないことであるから、受城使が来たら城内で切腹しようと述べている。
 この際、一方を正しく一方を誤っていると断ずることにさほど意味はなく、藩論を二分するような事柄だったことに着目する方がよい。また、大石の主張を殉死論というのは、誤りとは言えないまでも不正確であろう。元々開城は当然のことと思われていたが(笠屋和比古氏は大名改易時に、家臣団が籠城の姿勢を示し、藩主からの手書を待って開城するという作法が確立していたことを明らかにしている=『近世武家社会の政治構造』。作法として定着したということは形式化したということでもあり、籠城が現実的な方策ではなくなっていたことを意味しているだろう)、吉良生存説が浮上したことで、自明性が揺らいできたという状況である。このまま無下には開城できない、というのが主張の中心であって、明確な方針を持ってはいないというべきだろう。
 なお、この論争はいわゆる大評定ではなく幹部会議でのものであったと考えられる。その論証は別稿(赤穂城内「大評定」はなかった=li0010)に譲ろうと思うが、映画などで欠くことのできない大評定はどうも虚構であるらしい。さて、この幹部会議に出席していたうち、奥野将監をのぞく番頭は大野派、物頭達はおおむね大石派であった。この両派は、浅野家の親類を巻き込んで、政争を繰り広げることになる。

 内匠頭の刃傷事件で思わぬ危機にさらされることになった親類達は、見舞いかたがた偵察と鎮撫のための使者を送ってくる。そのうち、最初に赤穂に着いたのが三次浅野家の使者・徳永又右衛門であった。在国だった浅野土佐守長澄の命により、徳永は3月21日に三次を発し23日に着穂。翌24日朝、大石・大野の両家老が宿所に出向いて(取り込みの最中ということで徳永が入城を遠慮した)挨拶をした。土佐守からの口上は、このたびの不幸には言葉もない、心中察するが、騒動のないように、というものだった。これに対し両家老は明日お請けをすると返答した。尋常でないのはこれに続く『江赤』の記述である。すなわち、その深夜(子之刻斗)内蔵助が「ひそかに無僕にて参り」又右衛門に面会を求めた。寝所で会った又右衛門に大石が語ったのは、上野介の生死がいまだにわからない、江戸の安井彦右衛門・藤井又左衛門はどういうつもりか知らせてこない、定めて土佐守様には生死をお聞きであろうから、内匠頭のことを考えてくださるなら密かに知らせてほしい、ということだった。又右衛門は承知をし(恐らくこの段階では又右衛門も生死の確認はできていなかったであろう)、内蔵助は帰っていった。25日の早朝、また大石・大野がやってきて前日のお請けをし、徳永は同日赤穂を発って三次に帰っていった。大石の行動は、大野に知られたくない秘密のものだったと考えられる。吉良の生死の確認は、大石派にとってきわめて重要な関心事だったのである。
 一方、大野派にとっては吉良の生死自体はさほど問題ではなく、騒動を起こさないようにするのが第一だった。これは浅野家の親類と利害が一致している訳で、3月25日、大野は単独で小山孫六に書状を送っている。孫六は大石の叔父に当たる人物であるが、浅野本家の使者として広島から赤穂に向かっている途中であった(翌26日着穂)。この書状には、吉良が存命ならば家中の存念のある者が騒動になって大変なことになるから、本家・安芸守綱長と三次・土佐守から指示(すなわち静謐命令)を出してほしいと依頼してある。3月25日の段階で、大石と大野はそれぞれ勝手に動いているのである。

 そうは言っても、全くの分裂状態ではなく、両派は妥協しながら物事を進めている。25日夜、大目付・田中権右衛門に山本左六を添えて江戸に派遣した(『岡島』は二六日とするが、『一件』に従う)目的は、吉良の生死の確認(大石派)と一門方からの指示を得ること(大野派)の二つであった。先に触れた伊藤五右衛門が三次に出発したのも同じ夜で、徳永又右衛門に大石が密かに吉良の生死確認を依頼したことを考え合わせれば、同様に両方の意味を持っていたと考えられる。

2 大石派の優位…条件付き開城論

 赤穂で吉良の生死が確認されたのが何日のことであったか、確認はできないが、3月28日とするのが妥当なように思われる。
 この日、戸田采女正氏定(長矩の従兄)の家臣、戸田源五兵衛・植村七郎右衛門が赤穂に着いている。老中土屋相模守政直が氏定に命じたとおり、開城の指示を伝えるためである。この日の戸田・植村と大石・大野のやりとりを内海定治郎氏が紹介しているが(『真説赤穂義士録』211〜6頁。戸田家の記録によるとのことで、信用してよいであろう)、大石派と大野派の分裂が顕著に示されている。その中で、大野九郎兵衛の言葉として、吉良の生死がはっきりしないことが記されており、この時点では未確認だったと見られる。
 しかし、翌29日の昼には、収城検分のために赤穂に向かう幕府目付荒木十左衛門・榊原采女あての嘆願書を持った使者が派遣されるのであるから、28・29のいずれか、恐らくは28日には確認できたと考えられる(堀部武庸は「赤穂近国之家中より、赤穂之縁家へ申来」たと書いているが、一番怪しいのは戸田家の二人であろう。噂程度のことであればこれまでもあったわけだから、確認情報にはならない。これまでの他家の使者と違い江戸から来た両人が最も確実な情報を持っていたはずである)。その嘆願書は次のようなものであった。

 此度内匠儀、不慮不調法之儀ニ付、切腹被仰付候。因茲城地被召上候之段、家中之者共奉畏候。当日之次第、江戸ニ罷有候年寄共鈴木源五右衛門様被仰渡候趣、其以後土屋相模守様ニ而戸田采女正殿・浅野美濃守へ被仰渡候次第、奉承知迄ニ御座候故、相手上野介様御卒去之上、内匠切腹被仰付儀と奉存罷有候処、追而御沙汰承候処、上野介様御卒去無之段承知仕候。家中之侍共ハ不忽之者共、一筋ニ主人壹人を存知、御法式之儀ヲも不存、相手方無恙段承之、城地離散仕候儀を歎申候。年寄共了簡を以難申定候間、不顧憚申上候。上野介様へ御仕置奉願と申儀ニてハ無之候。御両所様御働を以、家中納得可仕筋御立被下候ハゝ、難有可奉存候。当地御上着之上言上仕候而ハ城御請取被成候滞ニも罷成候処如何奉存、只今言上仕候。已上。
『岡島』による。この嘆願書には大きく二つの系統があるが、オリジナルはこちらの系統である。もう一つの系統は「何方へ面を向可申様無御座候」という文言を特徴とし、堀部安兵衛が頻繁に用いているところから、堀部によるリライトと考えられる。

この嘆願書は吉良の生存を前提にして書かれており、3月29日までに生死の確認ができたことがわかる。内容はもっぱら大石派の主張、すなわち吉良が生きている以上このままでは開城しがたい、ということに終始している。籠城をも示唆するこの嘆願書は、幕府を脅迫しているともとれる、かなり強硬なものである。大野派は吉良の生死に関わらず無事開城を唱えていたのだから、この時点で大石が主導権を握っていたことは間違いない。

 ここで注意しておきたいのが、原惣右衛門が大野九郎兵衛を追い出したという有名な逸話である。原が大野派を一喝した話は諸書に見えるが、いつの出来事か明確でない。ただ、ここまで適宜妥協しながら並行して動いていた両派の均衡を、原の行動で崩したと見るのが一番無理がないように思われる。原自身が語ったところによれば、大石と大野の意見が合わない(どう合わなかったのかは記されていない)ので、「ここにいる者は皆大石と同じ考えである、考えが違うのであればこの座にとどまるのは無用である」と言って立たせた、という(『堀内伝右衛門覚書』、『纂書』第一)。「赤穂にては内蔵助とむかふ座に成、諸事申談」じていた惣右衛門が、「若立兼候はば、…其時打果」たす覚悟で退座させたということは、大石も承知のうえで脅しをかけたのであろう。なお、『武庸』などの記載から、これも、幹部会議の席でのことだったと考えられる。九郎兵衛はじめ大石に不同意の者は退座し、残ったのは大石内蔵助、奥野将監(番頭)、河村伝兵衛・進藤源四郎・原惣右衛門・小山源五左衛門(以上物頭)の六人であった。
 これは『武庸』が花岳寺で追腹を申し合わせたと記録しているメンバーであるが、この時点での大石派を列挙したものと見ておく。大野派と目される番頭のうち外村源左衛門と伊藤五右衛門は赤穂にいなかった。正確な幹部会の構成はわからないが、岡林杢之助・玉虫七郎右衛門(番頭)と八島惣左衛門(物頭)、植村与五左衛門・田中清兵衛(用人)くらいが大野派だとすれば、数的にはほぼ互角であり、性格的なことをあわせて考えれば(神崎与五郎によれば、伊藤は「侫姦」外村は「奸曲」で手強そうであるが、岡林・玉虫は「臆病」である=『赤城盟伝』、『纂書』第一)大石派が有利に物事を進める条件は整っていた。
 この時点でも、藩論が殉死になったと説明するのは不正確だと思われる。とられた方針は、切腹覚悟のもとで嘆願をするということである。大石派と大野派の対立は、条件交渉に持ち込むか、無条件開城をするかという性質のものであった。もっとも大石の提示する条件は、浅野家再興という表現では納まりきらず、「家中納得可仕筋」を立ててくれ、という点に主眼がある。「上野介様へ御仕置奉願と申儀ニてハ無之候」というのもまんざら嘘ではあるまい。今さら吉良の処分ができるとも思わない、だがそれではどう納得する筋を立てられるのか。さあどうしてくれるんだ、というところである。ともかくも、実力行使をちらつかせた強引な手法で主導権を握った大石は、多川九左衛門・月岡治右衛門を使者として出発させる。

 『赤穂義人録』では、大野らを追い出して藩論を籠城としたが、その後の会議に出席するものが少なかったので殉死嘆願に路線変更し、決死の覚悟のものがこれに同調して連判状を作成、その上で大石は復讐の真意を告げる、という筋書になっており、世間に流布する物語もおおむねこれに従っている。しかし、いわゆる連判状が作成されなかったのは既に定説となっているといってよい。大野九郎兵衛をはじめ大野派の面々も脱走したりはしていない(浅野本家から赤穂に来ていた丹羽源兵衛・井上団右衛門は、城引き渡しの役人以外は4月15日までに立ち退くはずなのに未だに引き払う様子が見えないことを、4月9日付けで江戸に、10日付けで広島に報告している=『綱長』)。連判をするしないに関わらず、赤穂浅野家中は運命共同体だった。そして、この嘆願使の派遣によって籠城の可能性すら生まれてきたともいえる。こちらから戦端を開くつもりはないが、幕府の反応次第ではそういう展開もあり得る。少なくとも赤穂ではそういう雰囲気になっていた。
 京都留守居だった小野寺十内は、4月3日に赤穂に着くと、ただちに内蔵助宅へ乗り込んで「我等小身に候得共、百年已来当家の御恩の者にて候。此度思召立候事御座候はゞ、乍憚御同然にいか様とも罷成べく」と申し入れた。京都留守居で一五〇石(役料七〇石)の十内を「小身」とは言えまいが、幹部会が『武庸』のいうとおり用人以上の構成であるとすれば、それよりは下になるのだから、言わんとする意味はわかる。幹部会に出席する資格を持たない藩士たちのうち志のあるものは、自発的に内蔵助を訪ねて十内と同様のことを言っていた。こうしたことは、4月7日付けで一族の小野寺十兵衛にあてた書状に書かれている(『赤穂書簡実録』=『纂書』第二)。この書状には、全体的な状況として、家中はかたくなな田舎武士だから「無下に城を明ケ渡し候ては立退申間敷と納得不仕」、家老から目付に「家中士ども納得仕候筋を御立被成被下候」と申し立てたということを述べている。前述の嘆願書をほぼ正確に要約していると言えよう。その上で、こういう使者を出すほどだから「諸士一同に自滅之覚悟に相極め、少も不動罷在」という様子であること、これは大石の強力なリーダーシップによるものであって「家中一統に令感心候て、進退をまかせ」ていること、なども書かれている。大石の統率のもと、城内は秩序を保っていたのであり、その中で特に強い気持ちの者だけが、自発的に(そして秘密裏に)誓紙を提出していたのである。
 もちろん相手のある話であって、無事開城する可能性もあるのだから、両様の構えでいたのであ。事実開城することになるのだが、『江赤』によれば「万々一両使之間違も有之、無是非御城引渡」になった時の覚悟はしていたという。 

3 嘆願未遂

 3月29日の嘆願使派遣によって、事態は新しい段階に入っていた。この間も鎮撫使はやって来るが、大石を中心とする赤穂側の姿勢は回答待ちである。4月9日に着穂した浅野本家の使者・井上団右衛門が綱長の言葉として首尾よく城を引き渡すようにと申し渡した時に、大石は「当然之御請」をしたけれども、嘆願使を派遣しているのでその様子の分からないうちは「聢と御請」はできないと答えている(『綱長』)。いちおう承りましたが、使者が戻らないうちはその通りにするとは言えません、ということである。
 さて、その多川・月岡は4月4日の夜中に江戸に着くが、肝心の両目付は既に2日に江戸を発っていた。江戸にいた家老の安井彦右衛門・藤井又左衛門は戸田氏定と連絡をとる。『義人録』は、江戸家老には知らせるなと大石が両使に命じていたにも関わらず家老に相談した二人を無能呼ばわりし、今も多数説がこれに従っている。問題があると思われるが、その点については別稿に譲ろう(「使命を辱むと謂うべきか」li0011)。ともかく、戸田氏定を含む浅野家親類が無難におさめたがっていたことは言うまでもない。すでに4月3日付けで鎮撫状を送っていた氏定であるが、5日付けで再び家中に無事開城するようにという書状を与えた。この書状を持って多川・月岡が帰穂したのが4月11日である。

 この時の様子は意外なほどあっさりしている。『江赤』によれば、内蔵助始め打ち寄って相談したことには「右存念書付責て於大坂成とも御目付中様へ 差出候得バ能々に、其儀無之帰着之事、扨々心外之至候。又押返大坂迄指出候内にハ 及延引候。其上采女正殿より段々之御制詞に候条、此上ハ無是非候間、御城首尾能引渡可申。其上にて了簡も可有之儀」ということだった。せめて帰路大坂でなりとも嘆願書を渡しておれば、というのは無念さの表れではあるが、ないものねだりというべきであろう。結論は、こうなったら仕方がない、無事開城した上でまた考えもある、ということである。それから開城処理にかかるのだが、「是迄も覚悟無之にてもなく」全く予想外のことではなかったので、さほど大きな混乱もなかった。

4 大野九郎兵衛の逃亡・堀部安兵衛の着穂

 4月11日、またはそれに続く短い間に「同志の者共」を説得した言葉は「大学殿一面目も有之、人前も罷成候様不被仰付候はゞ、是切に不可限。已後含も有之」というものだった(『武庸』による。これは、堀部らが物頭クラスから聞かされた言葉であるが、堀部らも同様に説得されているので、恐らく説得の必要がある場合には同じ論理を用いたものであろう)。ここでも主張は単なる浅野家再興ではなく、しかも《後の含み》という表現で仇討ちが示唆されている。大石がすべてを見通していた、とは言えない。ここまでの動きを見ると、彼は浅野長澄や戸田氏定といった人々がもっと同情的に行動してくれるという期待感を持っていたらしい。その点、大野九郎兵衛の方が見通しは正しかった。大石が優れているのは、常に複数のシナリオを用意している点にあろう。多川・月岡の嘆願未遂を確認した時点で、大石自ら嘆願するという策は頭にあったと思われる。そして、その結果家中の納得するような筋が立たないときには、吉良を討つことも考慮のうちだったのである。
 4月12日には大石・大野の連名で、在江戸の戸田家臣・中川甚五兵衛にあてて氏定の諭告(多川・月岡の行った嘆願に対する返答)の請状を出している。事態は大石よりは大野の思惑に近いものになっていた。にも関わらず、12日の夜、突然に大野九郎兵衛一家が姿を消す(内海定治郎氏は、12日に大野が病気を理由に戸田家の使者の前に姿を見せなかったことから11日説をとっている。『江赤』にも11日と書いている箇所と12日と書いている箇所があり、11日説も否定しきれないが、公式には12日ということになっているので、ひとまずこれによる)。翌13日、田中清兵衛(用人)・田中権右衛門(大目付)あての手紙で、病気のため尾崎新浜(赤穂郊外)に立ち退く、と知らせてきたが、実際には既に赤穂を出奔していた。
 理由はよくわからないが、孫娘を置き忘れるくらい(この話は『武庸』や『盟伝』にあるから、事実ではないとしてもそういう噂があったことは間違いなかろう。『江赤』には「郡右衛門娘を取落し由、風説在之」と書かれている)周章狼狽していたという。『江赤』によれば、分配金をめぐって岡島八十右衛門に不正があったかのように大野が言っていたので、これを詰問しようとした岡島の剣幕を恐れて逃げ出したことになっている。いちおうの説明にはなるが、それだけであろうか。原惣右衛門に恫喝されて評定から退席した大野九郎兵衛が、原の実弟である岡島に脅迫されて赤穂を脱出したのである。もう少し裏がありそうに思われる。少し後のことになるが、大野が三次浅野家の大坂用人・久保田源大夫にあてた手紙で「原惣右衛門当城引渡之儀に付、一分を立可申候由にて、企徒党申候」と述べているのは、必ずしも自分の言い訳だけではなかろう(『江赤』)。大野の退去には原・岡島兄弟による政治テロの影がつきまとっている。そして、その背後に大石が存在している可能性はかなり高い。

 4月15日、収城目付の一行が赤穂に隣接する脇坂領分鵤村までやって来た。用人の植村与五左衛門が挨拶に出るが、その際に、家老の大野九郎兵衛が病気だが(もちろん嘘だが、行方不明と言う訳にはいかない)内蔵助一名では困るので番頭のうちから筋目の者を立ててよいか、と尋ねて許可を得た。番頭中唯一の大石派、奥野将監が家老代理を務めることになる(先代将監は家老だったので、家柄からいって不当ではない)。大野が城内にいれば同席させざるを得なかったであろうから、彼の不在によって大石の城内嘆願がやりやすくなったことは間違いない。
 大野退去に、11日説と12日説があることも疑惑の材料になる。実際には11日に退去していたのを、12日として発表した可能性があるのだが、そうだとすれば、12日付けの中川甚五兵衛あての請状に大野の花押があるのは不審であり、退去前に文書を作成したとすれば、大石も承知していたことになるだろう。有名な逸話だが、脇坂軍に大砲を売った萩原兄弟を打ち殺そうという相談が藩士たちの間にあったので、大石が密かにこれを逃がした、ということがあった(『江赤』では大野の記事に続けてこれを載せている)。大石が大野の財産について寛大な処置をしたこと、大野はもっぱら原を憎んでいるらしいこと、などを考え合わせると、岡島に脅迫させる一方で大野を逃がす、という手をとった可能性が否定できないように思われる。

大野と入れ替えに登場するのが、堀部安兵衛である。刃傷事件当時江戸にいた堀部と奥田兵左衛門(孫大夫)・高田郡兵衛の三人は、吉良生存情報に接して憤激し、上野介邸へ切り込もうと同志を募ったが集まらず悶々としていた。赤穂になら有志はいるのではないかと思って出発したのは4月5日、多川・月岡が江戸に着いた直後である。家老らは情報を開示していないが、どうやら国元なら話のわかる連中がいそうだ、ということで出発の決心がついたのであろう。通常なら17日かかる道を10日で急ぎ、14日の夜戌の上刻(午後10時頃)赤穂に到着した。大野退去の翌々日、収城目付赤穂入りの前々日である。
 三人は早速大石を訪ねて面会したが、「此度之籠城相止、大学殿一分立候様に可罷成歟、安否之程暫可見届儀迚、城無滞引渡候に相極候」と取り合わない。大石には家老の立場もあるからと、奥野将監に相談しようとしたが断られ、それでは物頭連中にと相談を持ちかけた。やはり同様の返事であるが、その中で上述の「已後含も有之」との大石の言葉を聞き、それならばと大石を訪ね《以後の含み》の言質をとって大石に従うことにする。これが4月15日のことと考えられる。
4月16日、赤穂に着く幕府の目付・代官を出迎えに行く大石と、堀部らが道で行き会った。目付らを宿所に案内したあと大石は小山源五左衛門を呼び、堀部ら三人には説得してあるが「心底に不叶段、残念之気色余り健に相見」え、ひょっとして途中で目付へじかに存念を申し上げるようなことがないか、おぼつかない、もしそんなことなら「了簡之致様」があるので聞いて来るようにと命じた。堀部らは、大石に従うと約束した上はそんなことはしないと弁明している。国家老の大石には定府の堀部らはなじみが薄く信頼できなかったのであろうが(小山は堀部とは親しかったようである)、それにしても神経質なことである。だが、これも城内嘆願のシナリオを念頭におけば当然であろう。大石の考えている嘆願は、後述のとおり、きわめて微妙な言い回しとタイミングを必要とするものであり、堀部らの純情は掬すべきも、うかつなことをされては台無しになってしまうのである。

5 城内嘆願…条件付き開城の実現

 開城は4月19日と定められていた。これに至る細々とした手続きを紹介するのは本稿の任でない。だが18日、開城の前日に目付荒木十左衛門・榊原采女、代官石原新左衛門・岡田庄大夫による事前見分が行われたことだけは、書かなくてはならない。
 大石内蔵助・奥野将監(上述の事情で家老代理である)が四人を案内して屋形に入り、茶を出した時のことである。大石は、このたび内匠頭が不調法により処分を受けたことはとかく申し上げることもできないが、大学の安否も存ぜずに離散することは残念なので、何とぞ「大学御奉公相勤候程之首尾に罷成候様」に、と願い出た。四人は返事もしなかったのだが、大書院でも同様のことを願い、更に帰り際に玄関でも願い出た。再三の願いに、ついに石原が荒木に向かい内蔵助の申し分は余儀ないことで江戸に帰ってから御沙汰なされてもよいのでは、と助け船を出した。荒木もなるほど一通りもっともである、と同意したので、大石はさらにつけこんで、お取りなしをもって「大学蒙御免、面目も御座候て、人前をも相勤、快く御奉公をも申上候様」になれば家中一同安堵いたします、と述べる。荒木は、帰って御老中へ申し上げましょうかと榊原にふり、榊原もなるほどもっとも、と答えた(以上『江赤』による)。このあたり、責任を回避したい目付の思惑も興味深いところではあるが、大石の嘆願は、受理されたという意味で、とりあえず成功したのである。

 事実がこの通りとすれば、大石はかなりの交渉上手である。はじめは単に大学赦免を訴えて同情を得、そのうえで本来の趣旨である大学の「面目」・「人前」まで要求項目に含めてしまったのである。しかも、この検分で行ったというのは意味のあることであろう。既に藩士も退去して、実質的には開城同然である。19日の城引き渡しは多分にセレモニーの要素が強い。しかし、その儀式が行われる前に、浅野家の名誉回復を嘆願し、一定の回答(江戸へ持ち帰って老中に申し上げる=検討する)を得た。大石は、戸田氏定らに約束した通りに滞りなく開城しながら、同時にこれを条件付き開城にしてしまったのである。
このあたりの機微は必ずしも同志たちに十分伝わっておらず、それがこの後統制を困難にするのであるが、この後の大石の行動は、ここから理解できるように思われる。浅野家再興運動は、単なる再興運動ではなく、大学の人前のなるようなもの(吉良の処罰を含むもの)でなければならない。それが可能かといえば、恐らく不可能なのだ。しかし、開城の際に幕府の使者は回答を約束した。その回答は大学の閉門赦免の際の処置に示される。そこで家中の納得する筋が立てられなかった時、はじめて「後の含み」が正当性を持つことになる。

4月19日卯の中刻(午前7時前)から巳の上刻(午前10時頃)にかけて、大手から脇坂淡路守が、搦手から木下肥後守がそれぞれ入城して、城の引き渡しは無事に済んだ。浅野本家からの使者・井上団右衛門が荒木十左衛門・榊原采女を訪ねたところ、大石の処置を見事なものだとほめちぎっている(『綱長』)。外交辞令もあるだろうが、全くの嘘ではあるまい。引き渡しのために残留していた諸士にも退去の許可が出た。もっとも民政関係の引継はまだ行われるので担当者は残留、責任者の大石もまだ赤穂を離れる訳にはいかない。しかし、ここをもって一つの段階が終了した。

むすびにかえて…大石内蔵助・大野九郎兵衛・山本常朝

 開城をめぐる政治過程で、常に大石と対抗関係にあったのが大野九郎兵衛である。大石と大野のどちらが正しかったかは一概に言えないだろう。浅野長矩なきあと、主筋にあたる親類諸藩の意向を正しく見極め、それにそって行動したのは大野である。これを不忠と決めつけるのは如何なものか。大石は、吉良が生きているとすればむざむざと開城はできないと言うが、感情論でしかない。その時点で具体的な対案はなく、籠城もできないから切腹嘆願しようという、ある意味で無責任な言い方しかできなかった。吉良の生存を確認した段階で嘆願使を派遣するが、その内容は納得できる筋を立ててくれ、というばかりだから、客観的には駄々をこねているようなものである。しかし、大石は常に死の覚悟をもって行動していた。殉死嘆願論は、方針というより覚悟の表明である。使者による嘆願が未遂に終わったあとは、自身で嘆願するという手段に出るが、非常識なことに違いない。そういう思い切ったことができるという点で、原に脅されて評議から退席し、岡島を怖れて赤穂城を抜け出した大野とは段違いということになる。
 大石礼賛が目的ではない。注目したいのは、この思考法である。大石と全く同時代を生きた山本常朝(ともに万治二年=一六五九生まれ)の「武士道と云は死事と見付けたり」の言葉を想起するのは私だけだろうか。あの有名な文句に続くのは、二者択一の場面で早く死ぬ方を選択すれば良い、人は生きる方が好きだから好きな方に理屈をつけてしまうだろう、何が正しいかはその時にはわからない、判断を誤って生き残ったとすれば腰抜けである、判断を誤って死んだとすれば「犬死気違」ではあるが恥ではない、という言葉である。大野九郎兵衛は、好きな生きる方に理屈をつけて行動したために、恥を残すことになった。大石内蔵助は、見方によっては犬死かも知れないが、確かに名誉を得た。『葉隠』が処世訓の性格をもっていることは確かだが、非常時にあっても平時と同じ判断ができるように求める一連の発言からすれば、どんな場合にも通用する行動の指針であるとも言える訳である。常朝の主観に関わらず、大石の行動原理は『葉隠』に類似したものであった。いよいよの時は切腹するという選択肢を常に持っていればこそ、思い切った行動が可能だったのである。

 『葉隠』の処世術的な性格を語るものとしてよく引かれるのが「家老に成が奉公の至極也」という言葉である。これは家老の立場でなければできないことをするため(「奉公名利」)であって、決して個人の立身のため(「私の名利」)ではない。大石のリーダーシップを見れば、なるほど家老でなければ果たせない仕事があると思われる。江戸では家老が共にことなかれ主義だったために、堀部らは何もできずに赤穂に行かざるを得なかったのである。もしも大石が大野と同意見だったとしたら、忠臣蔵は生まれなかっただろう。大石が主体性なく下級武士に引きずられたという見解があるとするならば、事実に反する。大石はあくまでも自分の論理を貫いた。必ずしも「同志」全員が同じ考え方をしていた訳ではなく、ひょっとすると完全に理解をしていたのは大石本人だけだったかも知れないが、それでも家老であったがゆえに、自分の信念を貫くことができたのである。