不破数右衛門と岡野治大夫の致仕
宗玄寺記録を中心に

田中光郎

(1)

 いわゆる四十七士のなかでも、不破数右衛門は人気者の部類に入るだろう。主家大変時には牢人していたにも関わらず、特に願って加盟した。討入時には大奮戦。仮名手本忠臣蔵の芝居では、なぜか原作の「原郷右衛門」にかわって「早野勘平」の切腹の場に居合わせる“幹部”にまでなっている。彼が牢人した事情については諸説あってはっきりしないが、本稿では『宗玄寺記録(仮)』によって見てみよう。
 『宗玄寺記録(仮)』については以前紹介したことがある(「宗玄寺記録について」)。兵庫県篠山市の宗玄寺に伝わる古写本で、同寺のサイトに「元禄仇討ちの記録」としてテキストが公開されている。表題は特にないようで、仮に「宗玄寺記録」と私は呼んでいたのだが、通常の「記録」の使い方と異なるのが気になるので、ここでは仮題であるという意味で『宗玄寺記録(仮)』とし、以下『記録』と略記する。

(2)

 不破数右衛門は普請奉行を勤めていた。丑の年、というから元禄10(1697)年の春には勤方よろしいということで御褒美にあずかっている。ところが、その年の7月に主君・長矩が参勤から戻って来ると事情が変わる。「役儀勤方不宜」ということで、閉門になってしまったのである。『記録』は、「讒者」のため、「佞人ノサカシラ」のためと主張している。

 やがて閉門御赦免ということで家老・用人・目付が立ち会い申し渡しの節、数右衛門
「御免はありがたく存じますが、御請けはいたしません。御叱りをいただきましたこと、身に覚えがございませんので、御吟味下さいますようお願い申し上げます。この場でこのように申し上げますこと、如何かとは存じましたが、いったん退出してから申し上げますれば実父・岡野治太夫がさしとめると存じまして、この場にて各々様まで申し上げます」
と言って退出した。

 その後20日ばかりして大目付・間瀬久太夫が岡林杢助宅に数右衛門を呼び出して
「先頃閉門御免の節、落ち度これなき旨、吟味を願ったな。どういうことか、尋ねてまいれと殿様の仰せ付けである。」
という。
 数右衛門の答えるよう
「役儀は形の如く大切に相勤めておるつもりでいましたところ、思いも寄らぬ御意を承りましたので、御詮議のうえ私の不届きと極まりましたなら切腹仰せ付けられますようお願い申し上げます。おもいますに、普請横目の土倉宇右衛門が目付までありもせぬことを言ったのだと考えます。」

 追って「宇右衛門について言うことがあるならその趣旨を申すように」と求められた数右衛門、
「御詮議下さるのなら申し上げます」と答えたところ
「まず宇右衛門について言いたいことを聞かせよ」ということなので
「人の身の上を言うのは本意ではありませんが、(黙っていては)御為になりませんから申し上げます。この宇右衛門は役儀勤め方よろしからず、何より私曲がございます。在々の庄屋共に金銀の無心を申し、戸嶋堤の竹を勝手に切り取り、人足を私に使うなど、様々の悪事がございましたので、二度まで意見いたしましたが、それで関係が悪くなってしまいました。特に私が親・治太夫に告げ口をすると心配したのでしょう、私の勤方が悪いと言いふらしていると聞きました。このものが根も葉もないことを申し上げたのかと存じます」
と言った。

 しかし、結果的には再詮議はなされず、御免の節に願いを申し上げたのが上を憚らず不届きであると、暇をつかわされたのである。この年の12月14日、不破数右衛門は赤穂を去って播州亀山に移住する。

 数右衛門実父・岡野治太夫は、おって詮議を願うべき所ではあるが、それでは罪人をふやし殿様の御為になるまいと考え、翌元禄11年4月に病気を理由に暇を願い、4月7日に赤穂を立ち退き、播州亀山に引っ越し、佐倉新助と改名した。

(3)

 以上が『記録』の伝える父子牢人の事情である。『記録』は佐倉新助=岡野治大夫の周辺で成立したものと考えられ、内容は比較的信憑性が高い。この記事についても、たとえば長矩の帰国の時期を正確に書いており(「赤穂義士史料館」の年譜で確認できる)、証言の確かさを感じさせるのである。元禄6年頃の『浅野家分限帳』(『大石家義士文書』所収)には岡林杢助組に「百石 普請奉行 不破数右衛門」があり、大目付の間瀬久大夫、用人の岡野治大夫ともども証拠固めができる。土倉宇右衛門だけが確認できないのを遺憾とする。
 不破数右衛門の牢人の事情については、以前「不破数右衛門は敵持ち?」を草した際に整理をしたが、『赤城士話』(以下『士話』)の説が有力である。共通しているのは、閉門をいったん許されたものの、讒言によると訴え再審を請求するという事情である。ディテールの違いはあるものの(というよりは違いがあるからこそ)大筋は正しそうに思われる。前稿では、数右衛門と治大夫の牢人の間に関連があると考えて思いつきの「敵持ち」説を披瀝した。しかし『記録』の筋道なら両者の関連もぴったりおさまる。「敵持ち」説は潔く引っ込めることにしよう。もとより確定したとは言えないが、現時点では『士話』『記録』の一致するところに従うのが無難であろう。
 『士話』では再吟味が開始されないので怒った数右衛門が慰留を振り切って退身したことになっているが、数右衛門寄りの『記録』が免職説を採っているのだから、こちらを採用すべきだろう。元々の閉門になった原因について、『記録』は「勤方不宜」というだけだが、『士話』にあるように具体的ないくつかの項目があった可能性が高い。数右衛門に素行の良くない点がなかったと言い切ることはできない。
 そうした所行にもまして、閉門赦免の際に冤罪を訴えて再審請求をするというところに、数右衛門の真骨頂がうかがえよう。一筋縄でいかぬ曲者である。そして、父の道・臣の道を両全するために退身を願う治大夫もまた曲者。まさかの時に役に立つのは、こうした曲者なのである。