浅草同盟の深層
下級武士の家柄意識

田中光郎

(1)浅草同盟

 元禄15年の夏頃、なかなか腰をあげない大石内蔵助に業を煮やした急進派の運動が活発になっていた。その代表格が堀部安兵衛で、彼の動向は『堀部武庸筆記』によってかなり詳細に知られる。ただし、一口に急進派といっても、一枚岩だった訳ではない。上方の原惣右衛門・大高源五らとの間にも、意識・行動のずれがある。在江戸でも、片岡源五右衛門ら長矩側近のグループとはほとんど交渉がなかったし(もっとも、この時点で片岡らが「同志」と認められていたかどうか定かでない)、それ以外の「同志」も堀部のもとに集まっている訳ではなかった。
 武林唯七・倉橋伝助・前原伊助・勝田新左衛門・杉野十平次・不破数右衛門の6人が、浅草の茶屋で杯をかわして盟約した(以下、浅草同盟と呼ぶことにしよう)という事実を、我々に教えてくれるのはほかならぬ『武庸筆記』である。堀部自身はこの浅草同盟に関与していなかった。ところで、刃傷事件の当時牢人だった不破をのぞき、このメンバーはいずれも中小姓クラスである。
 中小姓とは、いわゆる小姓ではなく、正式の騎乗資格を持たない格の呼称である。赤穂藩の制度で言えば、堀部ら「馬廻」の下、神崎与五郎ら「横目」よりは上という位置づけになる。

「横目」は格の呼称か、役職名か、判然としない。ただ分限帳の記載の仕方から考えると、ひとつの格のようである。「歩行=かち」がその下になる。

 討ち入りに参加した浅野家旧臣に下級武士が多かったことは、つとに三田村鳶魚翁によって指摘されている(『横から見た赤穂義士』)。これを承けた山本博文氏は、他家の殉死者の構成などとあわせて、「義士」のなかに「かぶき者」の心性を見出している(『殉死の構造』)。「かぶき者」という括りの中にいれることに若干抵抗はあるのだが、それはさておき、下級武士から参加した者が熱心なグループを結成したことは、注目に値する。
 「横目」クラスを「中小姓」からはずすとすると、最終的に討ち入りに参加した「中小姓」は9人。浅草同盟に加わっていないのは、大高源五・貝賀弥左衛門・岡島八十右衛門・村松喜兵衛である。

(2)父を亡くして

 ところで、同盟に加わった中小姓5人のうち、4人までが子供の時に父を失っているという奇妙な事実がある。幕府に提出した親類書によれば、次の通りである。

名前年齢親類書記載父死去時
倉橋伝助34歳倉橋武助浅野内匠家来、28年以前死去7歳
前原伊助40歳前原自久浅野内匠家来、延宝4年死去13歳
勝田新左衛門24歳勝田新左衛門浅野内匠家来、16年以前死去9歳
杉野十平次28歳杉野平左衛門浅野内匠家来、19年以前死去10歳

 それがどうした、と言われそうである。私も当初は偶然のように思っていた。しかし、最近単なる偶然ではない可能性を考えるようになってきた。

(3)家格から見た浅草同盟

 浅草同盟のメンバーには入っていないが、上方急進派の一人と目されている大高源五もまた幼くして父を失っている。

名前年齢親類書記載父死去時
大高源五32歳大高兵左衛門浅野内匠頭家来、27年以前死去6歳

 源五の母が小野寺十内の姉であることはよく知られている。幹部(京都留守居)の小野寺家と下級(中小姓)の大高家の縁組みが不自然でないかという見方もあったが、斎藤半蔵氏の『大高家伝』により、父・兵左衛門の時には200石だったことが明らかになった(残念ながら『大高家伝』は未見で、『赤穂義士事典』からの孫引きである)。つまり、幼少だった源五が家督を継ぐにあたり、大幅な格下げになったというのである。

 はたしてそうならば、浅草同盟のメンバーに同様の事情が存在しないだろうか。
 杉野十平次の場合は、父の死後兄・平右衛門が家督を継いだと思われるのだが、その兄も事件当時には死去している。事情が複雑でよくわからないのではあるが、はっきりしているのは母が藩内屈指の資産家・萩原氏の出であること。実家の家督者と見なされる萩原兵助は150石の鑓奉行。つまり、大高−小野寺家の関係から類推して、父の代には相応の家柄だった可能性があろう。
 倉橋伝助の場合、母の実家と考えられる大平家の当主・弥五兵衛は「御徒目付」とあるから、100俵程度の幕府直臣であろう。大平氏についてはわからないが、母方の従弟と記載のある富沢太郎兵衛については『寛政重修諸家譜』で確認できる(刊本22-199)。「母は大平氏の女」とある富沢太郎兵衛利貞は250俵の御細工頭、父・利継も御徒から火番組頭を勤めている。家格としてそれほど高くはないが、直参と陪臣の差、実収入で蔵米100俵と知行100石が相当することを考えれば、これも父の代には100石くらいは取っていた可能性がある。
 勝田新左衛門の場合、母の実家佐藤家がどうなったかよくわからないが、父の死んだ時に既に嫁していたという姉の嫁ぎ先・酒寄作右衛門が150石であることを思えば、これも相応な家柄だった可能性が高い。
 前原伊助の場合、母は「家女房」つまり妾であり、縁類も少ないので、この方法でたどることができない。

 論証されたことではなく、仮説にとどまる、ということを確認した上で議論を進めたい。今は中小姓であっても、元々は馬廻クラスに引けを取らない家格であったとするならば、浅草同盟のメンバーにひとつの方向性が見えてくる。不破数右衛門の実父は用人を勤めた岡野治大夫、養家不破家も相応の家柄。武林唯七は、有名なことだが孟子の末裔。つまり、浅草同盟は不遇をかこつ元・名家の集まりだった。

(4)参加する下級武士

 浅草同盟に加わらなかった中小姓のうち、大高源五については既述のとおり。貝賀弥左衛門は、吉田忠左衛門の実弟で、母方の名字を再興して新規召し抱え。岡島八十右衛門は、原惣右衛門の実弟。このあたりも、単純に下級武士というよりは、巡り合わせで下級武士に甘んじているという感じが強い。
 村松喜兵衛は町人の出身だが、養家は代々不幸な家柄。養祖父・村松茂左衛門は駿河大納言忠長に仕え、養父・九大夫は堀田正信に仕えている。三代続けて改易の憂き目を見るとは凄まじい。それはさておき、養母は賀茂宮次兵衛娘とある。次兵衛が大番300石の賀茂宮直能(『寛政譜』16-290)であることを確認すれば、これまた相応の家柄ということになろう。
 中小姓以下クラスでは、神崎与五郎・横川勘平・茅野和助は津山・森家の騒動によって浅野家に仕えた者。津山時代はもっと上流だった可能性が高い。『赤城士話』には、神崎が三村次郎左衛門より後になるような格式ではないと、家柄にこだわった話が載せられている。
 その三村は、もと中国地方の豪族の出身。母への遺書でもその誇りを述べている。

 別に“優秀な血統”の存在を証明しようという訳ではない。そういう家柄意識が、下級武士の参加の動機になっている可能性を考えてみたいのである。山本氏のいう「かぶき者の心性」とも隣接する(イコールではない)。武士としての存在を過小評価されているという意識は、(再就職に有利とかいうことではなく)その存在をアピールしたいという気持ちを強化するだろう。同じ下級武士でも自分は他とは違うのだという意識。上級武士に劣るものではないという意識。それが、浅草同盟を結ばせ、多くの下級武士を一挙へ参加させたのではないか。
 繰り返していうが、あくまでも仮説である。この手の議論は軽々しく結論を出さない方がよい。しかし、事件の性質を考えるときに、配慮しておいた方がよい視点だと思うのである。