駆け付けた岡野治大夫
宗玄寺記録を中心に

田中光郎

はじめに

 不破数右衛門の実父・岡野治大夫は、旧主・浅野長矩の殿中刃傷事件が起こるや赤穂に駆けつけ、籠城に加わろうとした一人である(『堀部武庸筆記』など)。その行動は詳しく知られていないが、彼の周辺で成立したと考えられる『宗玄寺記録(仮)』(以下『記録』、拙稿「宗玄寺記録について」参照)に、かなりの量の記述がある。悉くを信ずる訳にはいかないが、あまり他の史料からは窺えない事柄であるので、紹介するのも無駄ではないと思う。
 なお治大夫の姓名であるが、退身後は佐倉新助と改めていたものの、『記録』でも岡野治太夫で記載されていることが多いので、基本的にこれに従う。表記は「治大夫」に統一しておく。また開城をめぐる諸事情については拙稿「赤穂城の政変」を併せて御覧いただきたい。

(1)主家の大変 −原惣右衛門の手紙

 元禄11年4月に浅野家を致仕していた(致仕の事情については拙稿「不破数右衛門と岡野治大夫の致仕」参照)岡野治大夫は、3年後の元禄14年3月19日の朝、一通の手紙を受け取る。差出人は原惣右衛門。内容は、江戸において主君・浅野内匠頭に大変事があったので子息・藤八を赤穂に差し越されたい、というものであった。惣右衛門は長矩切腹の報をもって赤穂に向かう途中で、姫路から播州亀山(現在は姫路市内)にあった治大夫に手紙を送ったのである。この時点では「大変」の中身まではわからなかったようだ。
 藤八は20日に赤穂に発ち、翌21日には亀山に戻る。治大夫が刃傷事件を知ったのはこの時のことだ。
 姫路藩中の笹川唯右衛門(娘婿)から吉良存生の情報を得た治大夫は、江戸からの情報は逐次知らせるように、と言い置いて、23日に赤穂に行く。

 原惣右衛門が早使の途中で手紙を出した、というのは、普通ではありそうにない事ではある。しかし、次の諸点から、一概に否定できないと思うのである。
 第一に、映画などの印象とは異なるが、早使も宿場で手紙を書くくらいのゆとりはあった。早水藤左衛門・萱野三平、原惣右衛門・大石瀬左衛門の両度の使者が小野寺十内に手紙を送っていたことが確認されている(『赤穂義士史料』下49号文書)。
 もちろん京都留守居の小野寺十内と、一牢人にすぎない岡野治大夫は同列にならない。しかし、3年前まで用人を勤めていたうえに、縁者でもある(治大夫の妻の姪が原の先妻)。治大夫を、原惣右衛門が厚く信頼していたことは想像に難くない。
 ただ親類であるというだけで知らせはするまい。子息をよこしてくれ、というからには何か用事があったのである。ここで考えられるのは、吉良の生死確認問題である。『記録』には、原が江戸を発つにあたって吉良の生死の確認にこだわっていたことが記載されている。結局、確認次第おって連絡するという江戸家老の言質を得て、未確認のまま出発した。同趣旨の記事は『松平隠岐守殿江御預け一件』にも見え、ほぼ事実としてよいであろう。だとすれば、治大夫に情報確認を依頼しようとすることは、あり得ないとはいえないのではないだろうか。
 『記録』の本文に原がその情報確認を依頼したとは書いていない。しかし、娘婿の笹川から本多家経由の情報が伝えられた事が、浅野刃傷事件を知ったことに続けて記載されている。治大夫はこの情報をもって赤穂に乗り込む。『堀部武庸筆記』に「上野介生死之程、江戸家老より終に不申遣、結句赤穂近国之家中より、赤穂之縁者え申来候・・・」とあるのに、みごとに照応するのである。

 子息の「藤八」であるが、不破数右衛門の親類書にその名はない。数右衛門の弟とされているのが佐倉慶也(大坂の町医、元禄16年に30歳)、佐助(新助一所、27歳)、亀八(同、13歳)の三人である。宗玄寺のある丹波古市には、藤八を不破数右衛門の幼名とする伝承があるが、ここでは藤八=数右衛門では整合性を欠く。藤八は岡野家継嗣の名前だったのかも知れない。『記録』の別の箇所(同志の連名、ただし治大夫らの加盟は疑わしい)に「岡野治大夫・同藤八・同左助 此三人同国亀山居住浪人」とある。とすればこの時点では慶也は亀山に同居しており、藤八と名乗っていたとするのが一番無理がなさそうである。(幼年の亀八は連名にいれなかったのであろう)

(2)籠城殉死の主張

 赤穂に着いた治大夫は、縁類の奥野将監・原惣右衛門を通じて大石に進言する。
 「拙者は御勘気の者ではござるが、御高恩は忘じがたく参上いたしました。このたび殿様は御切腹、相手は薄手にて存生と承る。御大法とは申しながら、家来の身としてこのままには差し置きがたい。おのおの申し合わせて城に立てこもり、大学殿による御家相続を願い、かなわぬ時には御目付衆の下向を待って殉死するのがよいと存ずる。そうであるならば拙者も御一緒に・・・。」
 これに対する大石からの回答は「たのもしき心底を承りました。さりながら、いまだ上野介生死も定かならず、足軽共も騒動いたして収拾がつかぬ状態で・・・」というもの。
 再び進言「足軽の騒動などは鎮められましょう。上野介存生の由は確かなことで、姫路からの書状もこれこの通り。急ぎ談合されるのがよろしかろう。まずは他所者を追い払い、煙硝蔵の玉薬を城の櫓に移し、そのうえで御相談されよ。“役人”ばかりの“内証の相談”ではいけません。惣家中、徒小姓以上を残らず城へよび、銘々の意見を聞いた上で決定されるべきです。相談の次第・申し付けようなどはじきじきにお話いたしたい。」
 これに対して「お申し越しの趣は一々承知いたしました。よく相談してみることにします。玉薬はいつでも入れられます。御面会いたしたいとは存じますが、現在は“他所仁”ですから城内でお会いするというわけにもいきません。上野介の生死を確認し、そのうえで方針を決定しますから、まずそこもとにはお帰り下さい。方針が決まりましたら、おって連絡します」という返事であった。
 大石は吉良の生死確認やら金策やらで使者を派遣する。すぐに談合が決まるという形勢でもないので、新助は亀山の始末をしながら連絡を待つと原・奥野に言い置いて27日に亀山に戻った。

 奥野将監の妹(以和)は長沢六郎右衛門の妻で、六郎右衛門の妹が岡野治大夫の妻である。原の先妻は以和の娘。要するに三人は縁者なのである。治大夫はこの縁者を通じて大石に進言するのだが、直接会ってはもらえない。やり取りを見ると、大石に適当にあしらわれている感が強い。他所者を追い払えと言った治大夫に、あなたも今は他所仁ですよと逆ねじをくわされているところなど、典型的である。
 このあたりに『記録』のリアリティを感ずるのである。治大夫の志操は感ずべきであっても、手柄話になっていない。要するに吉良存生の情報を提供しただけのようである。また“役人”ばかりの“内証の相談”を批判しているのは、「藩士総会的大評定の物語」に影響されていない証拠と言えよう。

 治大夫が3月27日に亀山に戻ってから4月6日再び現れるまでの間、赤穂では開城をめぐって議論が戦わされている。治大夫はもちろんこれに関与しておらず、『記録』の記事にも不正確なところが見られる。この不正確さをもって『記録』全体を否定するのは恐らく正しくない。むしろ情報源の偏りを思うべきであろう。

(3)テロとクーデター

 亀山に戻って身辺整理をした岡野治大夫、赤穂に二度まで飛脚を送ったけれどもいまだに結論の出ない様子に、また意見をしてやろうと赤穂に向かう決心をする。家財道具は飾磨津(原文「錺万津」に作る。現在姫路市飾磨区)の房屋という町人に入質、30両余りの金にした。子息・藤八に
「赤穂で決定次第連絡するから、そうしたら老母・妻子を連れて室津明神(賀茂神社、現在揖保郡御津町)へ参詣すると言いふらして室へゆき、船で赤穂に来るか、場合によれば駕籠でもよい。あとのことは西山浅右衛門(亀山居住の親しい牢人)に、『当分の間留守をしていただき、赤穂で事があったと聞いたら火をかけてくれ』と頼んであるから心配ない。とにかく赤穂からの連絡を待て」
と言い置き、自らは網干に行くと言いふらして飾磨から船に乗り、4月6日に赤穂入りする。

 原惣右衛門のところで相談の様子を聞くと、
「毎日相談しているのだが、大野九郎兵衛ら“弱兵”が同意しないので・・・」と言う。
「“同志”はどれほどあるのか」と聞くと「五十人以上は」との返事。
「そのくらいいるなら事はかなう」として治大夫が展開するのが、大変なクーデター計画である。
 ともかく煙硝蔵から玉薬を矢倉に取り入れるのが第一。今夜中に20人ばかりの若者で取り入れてしまい、そのうえで(つまり籠城準備を整えたうえで)明日惣家中を城内に呼んで考えを聞けば、皆同意するであろう。足軽共が騒ぐのであれば、物頭の宅に若侍を20人くらい送っておいて、同心しない者についてはその座で討って捨てれば一日のうちにまとまるであろう。“弱者”の番頭たちについては、事に先立って大野九郎兵衛父子を討ち果たし、従わなければ大野同様にすると脅せば同意するであろう。
 さあ、そう事が起これば諸方の忍びが大勢町に居ることゆえ、各国に知らせが行く。中でも問題は備前池田家の動向で・・・以下今度は池田家相手の戦術を披瀝する。まあ島原ほどの事にはなるであろう、と治大夫は言う。そううまくいかなければ、必死の五・六百で籠城し百日か一年も持ちこたえれば、時勢の変化もあろうというもの。また、公儀も乱の端にもなることと家中の願いも聞いてくれるかも知れぬ。云々。

実際にあったわけでもない、テロを含むクーデター計画を、延々と記録しているところにこの『記録』の性格を見ることができる。偽作するなら、もう少し意味のあることを創作しただろう。こんな計画に関心をもつのは治大夫本人か、彼の思い出話を残しておこうとする人くらいのものと思われる。この計画、あまりに楽天的かつ無謀でほほえましいくらいであるが、純情は掬すべきも、ちょっと従う気にはなれない。おまけに、忘れてはいないだろうが、この時点で岡野治大夫は浅野家中ですらないのである。従来通り直接面談はしていないが、大石も持て余し気味のようだ。

 再び『記録』に戻る。
 岡野治大夫の大計画を原惣右衛門から聞いた内蔵助「新助(ここでは原文が新助になっているのでそのままにしておいた)にはいよいよ覚悟を決めて参られたとみえる」との挨拶。
 治大夫「亀山の処理もして、こちらが決定次第妻子が引っ越すばかりにして参った。」
 内蔵助「さてもさても頼もしき心底。最前も聞いたけれどこれほどとは思わず、思い詰められた心底には落涙するばかり」と一応は持ち上げておいて
「申し越された趣、承ってもっともには存ずる。しかし吉良の生死を確認にやった者、両御目付にお願いに遣わした者が戻ってからのこと。煙硝は事をおこす最初に取り込みましょう」という返事。
 そこで治大夫は上島弥助(これも娘婿にあたる)宅に滞留して、決定を待っていたのである。

(4)治大夫退場

 やがて城中では開城に決定するが、この間の事情は治大夫の関与せぬところであるので省略しよう。大野九郎兵衛の逃亡についての興味深い記述などがあるが、治大夫の行動とは関係ないので、これも他日を期すこととしよう。

 開城と決まった後で、大石から上島を通じて連絡がある。
「このたびは早速駆け付け志を示されましたこと、とかく申すべきようもなく感じ入りました。近日屋敷を明け渡し会所に参りますので、その節にはお目にかかり御礼を申し上げたい。」
 今度は治大夫の方が素っ気ない。
「御念のいったお申し越し承りました。私は各々様への志で参ったわけではありません。代々御厚恩を受けた者ですので、志を立てるために参りました。開城と決まったからには他に用事もありません。各々様から御礼を受けるいわれもありません。
「承れば近日金銀の配分があるとのこと。そのためにしばらく滞留せよとのことでしょうか。私は金銀受取になど来たわけではありません。そのような汚らわしい金銀はいりません。かさねて時節もござればおめにかかるでございましょう。」

 同じ日、上島弥助宅において村松喜兵衛と会ったことも記されている。
 門前で会った時に喜兵衛は子息・三大夫に向かい
「江戸で言ったであろう。岡野治大夫殿は先年不満を持って立ち退かれたけれど、このたびは必ず赤穂に参られると。推量のとおりであろうが」
と言ったあと、治大夫の手を取って落涙に及ぶ。治大夫も志を感じて涙を流し、このたびのことを残念がる。
 村松喜兵衛は、三大夫ともども、江戸からいちはやく赤穂に駆け付けた人。熱血老人同士の対面は、なかなか感動的な場面である。

 武林唯七・大高源五は江戸から戻り、奥野将監に志を通じていた。ほかに矢頭長助も目付まで志のあることを伝えていたので、この3人へ「落ち着いたら亀山においで下さい。相談したいことがあります」という伝言を、上島に託した。

 かくして、岡野治大夫は開城を見届けることなく、4月14日に亀山に帰っていった。
 大石との関係は、必ずしも良好とは言いづらいようである。金銀を受け取らぬのは潔癖のなせるところとしても、言葉に棘があることは否めない。治大夫が信頼しているのは、縁類でもある奥野将監の方だろう。このことが、将監脱盟をめぐる治大夫の行動を理解する鍵になるはずである。
 これはと見込んだ人々とは連絡をとっている。相談したいこととは、もちろん吉良を討つ話だろう。周囲がどう思っていたかは知らず、本人の主観では一挙の指導者だった。
 もし、もう一日長く、治大夫が赤穂に滞在していたらどうだったろう。江戸から来た堀部安兵衛らが赤穂に着くのが14日の深夜である(当然治大夫は会っていない。『記録』では三人の到着を17日にしているが、『堀部武庸筆記』に従う)。東西のはねっかえりが結びついたら、大石にとっては厄介だったかも知れない。歴史に「れば」「たら」はないのだから、そんなことを考えるのは無駄なことではある。
 『記録』によって見た赤穂開城時の岡野治大夫の行動は、以上のようである。亀山に戻ってからの行動は、稿をあらためることとしたい。