宗玄寺記録について

田中光郎

 先日、宗玄寺のサイトで「元禄仇討の記録」なるものが紹介されていたのを拝見した。まだ専門家による調査もなされていないようで、軽々に断定はできないが、内容を見る限り、かなり良質な史料のように思われる。

 至心山宗玄寺は兵庫県篠山市古市にある浄土真宗の寺院である。不破数右衛門の実父・岡野治太夫の墓があり、不破数右衛門ゆかりの寺として著名である。この「記録」の著者は不明だが、宝暦14年(明和元=1764)に「不破数右衛門母方曾孫恵輪」が写したとある。岡野治大夫−不破数右衛門の近辺で成立したと考えるのが自然であろう。

 内容は赤穂事件の顛末であるから、成立自体は不破家と関係なく、別途入手した書籍を写したという可能性はもちろんないではない。しかし、どうもそうではなさそうである。
 例えば赤穂開城の節の記述は、城内の様子ではなく、亀山にいた佐倉新助(もちろん岡野治大夫と同一人物である)の行動が中心になっている。さらに、浪人していた新助が「縁者」である奥野将監・原惣右衛門を通じて大石と連絡をとったという記述がある。奥野・原が新助と縁者であるというのは、事実である。佐倉新助(岡野治大夫)の妻は、奥野の妹であり、原の前妻の叔母にあたる。この事実を我々は『大石家外戚枝葉伝』で知ることができるが、一般的に広く知られた事柄とも言えまい。
 もう一例を挙げれば、奥野将監の脱盟に関連して、「将監弟同名弥一兵衛と申浪人(尾張住)」の名が見える。弥一兵衛が際だった活躍をする訳ではないのだが、『外戚枝葉伝』によって将監の弟で名古屋に住んでいた朝比奈弥一兵衛定代のあることを知れば、かなり正確に事情を知っている者が本書を書いたと推定する根拠にはなろう。

 「宗玄寺記録」が信用できるとすれば、拙稿「東行違変の舞台裏」「熔けた鉄心」での考察に若干の修正と補足が必要になる。
 『松平隠岐守殿江御預け一件』には、元禄15年秋に奥野将監・河村伝兵衛が嘆願の続行を訴えて容れられなかったという記述がある。時期がはっきりせず傍証が不十分と考えていたが、「記録」には奥野は元禄15年閏8月21日に亀山を発し、河村伝兵衛同道で大石に嘆願続行を迫ったとある。
 つまり、奥野はいわゆる神文返しにより脱盟したのではないということである。閏8月上旬に脱盟を言い出した進藤・小山らよりも遅れ気味、彼らが大石の説得を最終的に断った時期の脱盟ということになる。
 なお、この「記録」によれば神文返しは大石の独断であり、これも進藤・小山らが脱盟する原因になったと指摘している。前掲拙稿の文脈とは若干異なることになるが、これはいずれ考えてみたい。

 このほか、不破数右衛門致仕の事情、神文返しの際の不破の行動など、他書に見えない興味深い記述が多い。浅野刃傷の原因になる事柄についても、他書と異なる事情が見える。無条件で飛びつくわけにはいかないが、慎重に取り扱えば大いに参考になるものと思われる。