『堀部武庸筆記』の流布について

田中光郎

 本稿は拙稿「『堀部武庸筆記』の構成」(以下前稿)で述べたことを前提にしている。未読の方は、お手数だがまずそちらに目を通していただきたい。頁の指定も前稿と同様『近世武家思想』によっている。

(1)流布の状況

 『堀部武庸筆記』(以下『筆記』)の内容は、かなり早い段階から一定程度流布していたと思われる。
 たとえば、事件後いくばくもない段階に成立したと考えられる『介石記』に、開城前に幕府目付に提出しようとした嘆願書が収められている。周知の通り、この嘆願書には少なくとも2通りのテキストがあるが、『介石記』が採用しているのは『筆記』(第T部)に起源をもつと考えられる方である。
 堀部安兵衛はこの嘆願書が作られた時には江戸におり、正確に文面を知りうる立場になかった。それを反映して『筆記』は「奉願意趣」としてこのテキストを掲載している(p182)。微妙な言い回しではあるが、一字一句そのままではなく、趣旨を取ったものであることを示唆しているのだ。そして、この文書中で「当城離散仕、何方へ面を向可申様無御座候」という特徴ある文言が使用されている。城を明け渡してはどこにも顔向けがならないというこの文言は、ほぼそのままの形で、城内の幹部会議の場面(p181)でも、大石に向かって堀部ら三人が詰め寄る場面(P188、第U部である)でも用いられる。堀部のお気に入りのフレーズだと考えられる。つまり、これは嘆願書の趣旨に基づき堀部が書いたものと推定するのが順当である。
 『介石記』が『筆記』の嘆願書を採用していることは、これが『筆記』(またはその影響を受けて作成された資料)に拠っている証拠であろう。なお『介石記』は『筆記』にない一項「無拠子細に付当城於罷出は、各志之者共、当地於花岳寺切腹可仕事」を付け加えているが、この部分も『筆記』の記述(p181)から補足されたものであろう。
 ただし、『介石記』が『筆記』の全体を見て書かれたかというと、そうではなさそうに思われる。第U部に相当する部分に関わる記述はない。あれだけの情報を見ていれば使ったであろうから、知らなかったと考えた方がよさそうである。同様のことは、『赤城士話』などについても言える。

 もちろん第U部相当部分が広まらなかったというのではない。『浅野仇討記』は引書に「堀部武庸日記」を挙げているが、「堀部奥田忠義」と題した項目の記述から、この「日記」が第U部に相当する(少なくとも相当する部分を含んでいる)ことは確実である。
 『赤城義臣伝』は、第U部にある書状を多く載せている。これは『義士文通』からの孫引きであるが、片島深淵は『義士文通』の「いくつかの書状があったが省略した」という文言も引用しており、『義士文通』が『筆記』第U部そのものではなく、その抜粋であったことを明らかにしている。『赤城義臣伝』は嘆願書としては『筆記』所収のものでない方を採用している。また城中会議の模様も大分異なっており、第T部を見ていないか、または軽視したものと思われる。こうした点を考えあわせれば、こんにち一体のものとして見られる『筆記』も、早い段階では異なった形でも流布していた可能性が想定できるのである。

(2)細井広沢家への伝来

 現在見ることができる『筆記』は細井広沢家から出たものである。『異説まちまち』には「堀部留書二冊青山より来る」とある(『異説まちまち』については拙稿「和田烏江『異説まちまち』と赤穂事件」参照)。青山とは百人組与力として青山に住んだ細井宅を指している。この二冊が『筆記』であることは疑いない。『国書総目録』に見える『堀部安兵衛手跡』『堀部安兵衛報讐前年自書』も二冊本で、この系統の写本だと考えられる。恐らく『浅野仇討記』のいう「堀部武庸日記」もそうだろう。

 広沢の子・知文(九皐)の跋は、この伝来について以下のような事情を伝えている。

右冊子元本、堀部安兵衛報讐前年自書写、以附先人。安兵衛賜死後、遺物残血籠手一双今存于家。元本後年為丙丁成烏有、可惜也。此冊子、先人友人長谷川平馬(天英院殿一位殿御侍也)請先人而書写。有故平馬絶後、又以此冊子今蔵于家。以換元本。(p270)

 おおむね信用してもよいとは思うが、文章の脈絡が必ずしも明瞭でなく、疑問の点もある。
 第一に「報讐前年」とあるが、内容が元禄15年(すなわち報讐当年、1702)の夏まであるので、これはおかしい。この跋が書かれたのが宝暦4年(1754)ということで、事件から半世紀以上経っているうえに、書いた九皐が生まれたのが正徳元年(1711)であるから、討入当時には影も形もない。不正確な記述があってもやむを得まい。

 『筆記』が堀部安兵衛から細井広沢に贈られた事情をより詳しく説明しているのが佐佐木杜太郎氏である。『細井広沢の生涯』によれば、元禄15年12月15日払暁、深川八幡前の広沢寓居の門を叩く者があった。「広沢先生、広沢先生と名を大声で呼ばわり、われら本望を達し、ただいま芝泉岳寺の主君菩提寺まで引揚げる途中である。他ならぬ先生にお別れの一言申し述べに参った堀部安兵衛でござると、どさっと門内に一包みの物を投げこんで立ち去った」(p160)とあり、これがすなわち『筆記』だったという理解らしい。

 佐佐木氏の根拠は、必ずしも明確でない。このあたりの叙述はおおむね『二老略伝』によっているのだが、「どさっと門内に一包み」に相当する記述は同書にない。細井家の史料で補足したのかも知れないが、よくわからない。斎藤茂氏も同じような理解を示しているが(『赤穂義士実纂』p244)これも根拠は不明である。碩学の指摘だからむげに否定もできないが、単純に考えれば、討入の場に戦闘の邪魔になる書き物を携行することはなさそうだ。
 そもそも『二老略伝』の記述すら眉唾ものである。通説的な理解に従って永代橋近辺から約1km離れた深川八幡まで往復したとすれば、隊列に復帰するまで30分以上はかかるだろう。上杉の討手を想定していたとすれば、武人・安兵衛の心理として、隊列を離れることは考えづらい。母に会いに行く事を拒否した礒貝十郎左衛門の心情(『堀内伝右衛門覚書』)の方が納得できる。『二老略伝』の他の記事も、別の史料と符合しないことが多い。特にこの話は「老先生の嬬人、九皐先生の幼少の時分物語」であって、広沢自身から出た訳ではない。広沢夫人は夫より先に亡くなっているが、九皐は父に確認しなかったものと見える。広沢夫人または九皐の勘違いだと考えたいが、断定は控えよう。
 ともかく、討入・引揚時に届けられたという可能性は低いと思われる。

 広沢へ贈ったのを元禄15年夏、安兵衛上京直前と見るのが八木哲浩氏である(赤穂市『忠臣蔵』第1巻p129)。安兵衛上京の直前で終了するといういささか唐突な終わり方から考えれば、そこまでのものをまとめたのだと解することに一定程度の説得力はある。しかし、大石と決別するかどうかは別にして、江戸に戻って吉良を討つつもりでいたはずだ。この時点でこれを広沢に託する理由はない。しかも、広沢はこのころ浪人し、かなり身辺多事だったと思われる(拙稿「細井広沢の致仕」参照)。広沢に対する信頼を疑うつもりはないが、上京前に託したという説を積極的には肯定しがたい。
 討入以前に広沢に贈られたとする根拠は、九皐の跋文であろう。しかし、その文意は必ずしも明確でないし、明らかに事実に反する箇所(「報讐前年」))もある。これはたぶん十分に意を尽くしていない文章なのだ。

 この跋文が意を尽くさない文章であるという仮説の元に、九皐が何を言おうとしていたかを考えてみよう。この手法は恣意的な解釈に陥る危険性が高いのだが、ひとつの可能性ということでお許しをいただきたい。
 「報讐前年」に問題があることは既述の通りだが、これは広沢の手にわたった時ではなく、述作の開始を言ったものと理解しておこう。もちろん「前年」が「前」の書き間違いに過ぎないという可能性が否定された訳ではない。いずれにしても、ここにはあまり拘泥しない方が安全である。
 跋文は『筆記』に関する記述の合間に安兵衛の籠手について述べる。九皐の意識の底に籠手と『筆記』に深い関連、つまり一緒に伝えられたという認識があるとは考えられないだろうか。籠手が細井家に到来したのは、もちろん討入後である。九皐の跋によれば「賜死後」、『異説まちまち』によれば引揚の際に届けられたとする佐佐木氏・斎藤氏の記述も、籠手と『筆記』がセットで細井家に到来したという伝承に由来すると考えれば、理解しやすい。この推定が正しいとすれば、『筆記』が細井家に伝えられたのは討入後、切腹の前後ということになる。当然ながら安兵衛でない他の人物、恐らくは堀部家ゆかりの誰かから形見として届けられたものであろう。

(3)別ルートの可能性

 跋文には安兵衛が自ら「書写」したという記述がある。「書写」という言葉が自然に選ばれたものだとすれば、細井広沢に与える以前の原本が存在したと、九皐が認識していたことになる。前稿では(A)原本→(B)安兵衛自写本(細井元本)→(C)長谷川筆写本(細井新本)という流れを想定した。現在見られるのは(C)を転写したものばかりだが、先に見たとおり近世に流布していた『筆記』は、必ずしも現在見られるのと同じスタイルではなかったと見られる節がある。細井広沢に贈られたのは、本当の意味での原本ではなかったかも知れない。九皐の跋に見える「自書写」という表現を、その事情を示唆するものと見るのは強引だろうか。
 (A)原本の存在を仮定するとして、それが現在見られるものと同じであった保証はない。別稿で示したとおり、少なくとも第T部、第U部上・下の三段階を経て成立したとすれば、それぞれが別の書冊(または巻物)であった可能性は少なからずある。その場合(A)は原本というより稿本と呼ぶべきかも知れない。しかし、手がかりのない問題に深入りしても得るところはなさそうである。今は(A)から分岐する別ルートの可能性を考えてみよう。

 開城当時の記述の中で、堀部がしばしば「何方へ面を向可申様も無之」という表現を用いているのは上述の通りである。この場合問題になっているのは、主君への忠義と言うよりは、堀部(または個々の家臣)の名誉である。決して堀部を批判する筋合いではなく、忠義と名誉が一体のものとしてあることを認めるべきだと考えられるが、ともかくも『筆記』の作成にあたって自分の名誉に強烈な関心を持っていたことは注意しておいた方がよい。
 安兵衛が赤穂開城後に亡父の友人・吉川茂兵衛に宛てた書状がある。この書状では刃傷事件以後の行動をかなり詳しく報告しているのだが、その中に「於赤穂も様子能仕なし、殊大石内蔵助と申家老より、急度墨付ヲ相渡候付、初中後共に、我等三人唱は宜御座候間、御心易思召可被下候」という文言を見いだすことができる(『赤穂義士史料』下p84)。大石の墨付きとは『筆記』に収める4月20日付のそれであろう。自分たちは恥ずかしくない行動をとったから安心してほしいという言い方は、おめおめ城を明け渡してはどこへも顔向けが成らぬという表現と、表裏一体をなすと考えられる。そしてその名誉ある行動の記録を残したいという心理がここに示される。『筆記』執筆の動機と、吉川に書状を贈った動機は、ほぼ同じであろう。

 吉川宛の書状と似た雰囲気を、15年11月20日付けの溝口祐弥等の実方の親戚に宛てた遺書に感ずることができる(『史料』下p188)。「去夏以後、区々之了簡、相談も前後仕、余延々成行候故、私儀当六月十八日江戸表出足致上京・・・」と自らの活躍で決行方針が固まったことを、得意げに語っている。
 そのあと堀部は「右一巻初中終委細得御意度候得共・・・不能其儀候。乍然佐藤条右衛門儀初中終之儀、淵底存知罷在候付而、此一紙頼置申候」と続けている。一挙についての詳細は佐藤条右衛門が知っているというのである。言うまでもないだろうが、佐藤条右衛門は安兵衛の親戚で、列外の同志というべき存在である。その条右衛門にこの手紙を託して「亡命已後」すなわち死後に届くように手はずを整えていたのである。
 堀部は自分の名誉ある行動を誰かに伝えたかった。そして、そのメッセンジャーに選ばれたのが佐藤条右衛門だったのである。条右衛門の立場から、ある程度は事情を知っていたろうが、それほど機密にふれていただろうか、疑問は残る。しかし、条右衛門が「淵底存知」ているという、「去夏以後区々之了簡」の「初中終」は『筆記』の守備範囲に相応している。この証拠書類を託されていたとするならば、「淵底存知」ているというのもあながち無理ではないだろう。上述のように『筆記』が籠手や笄とともに細井広沢に届けられたとすれば、それを託された堀部家遺族は佐藤条右衛門だったかも知れない。

 本稿で述べたことに、確定的なものはほとんどない。しかし、無理に一つの結論にあてはめることだけが重要なのではない。現時点では、いろいろな可能性が考えられるということを共通理解とした方がよいと思っている。