和田烏江『異説まちまち』と赤穂事件

田中光郎

(1)和田烏江について

 和田烏江(正路)の著『異説まちまち』(『異説区』))は、『日本随筆大成』第1期第17巻に収められている(以下、同書からの引用はこの本から頁を示す)。烏江について知られていることは必ずしも多くないが、関宿藩の家老・木村正右衛門が小宮山次郎右衛門(楓軒)にあてた手紙(p156)によれば関宿藩士で和田庄太夫といい、河口三八(静斎)に儒学を、細井次郎太夫(広沢)に書を学んだ人物だった。
 烏江の生年は、明暦の大火(1657)の時48歳だった家来の横山氏が84歳で死去したのが誕生の前年だという記述(p112)によって計算すれば、元禄7年(1694)ということになる。和田家の先祖についてはあまり書くことがなかったらしいが、母方の松浦氏についてはある程度情報がある。高祖父は松浦石見とて尼子家の浪人、大坂で書を教えていたという(p70)。曾祖父は松浦金太夫といい、馬にまたがって足が地に着くほどの大男(p78)。祖父は松浦長左衛門であるが、これは高力氏から養子に入ったらしい(p91)。藤兵衛という外伯父は承応元年(1652)生まれの由(p67)。寛文2年(1662)生まれの母が庄内に育っていることから見れば、松浦氏は庄内藩士だったのであろう。烏江には正敬という兄のあったことが知られる(p117)が、年齢差は不詳である。

(2)『異説まちまち』の成立

『異説まちまち』の成立は、前掲の木村正右衛門書状(文化10=1813)に「四五十年以前」とあるので18世紀中頃の成立と見られる。巻之三の末尾には寛延元年(1748)の日付があり、これが全体の成立を示すとは限らないが、ひとつの目安になるであろう。「十三年前広沢先生・・・語られし」(p91)という記事も、広沢没の享保20年(1735)を基準にして1748年以前と判断する根拠になる。
 『異説まちまち』は著述目録には七冊とあるが、『随筆大成』に収めるのは四巻である。一部が失われたのか、巻立が異なるのか、わからない。内容は儒学・兵学・武術など多岐にわたり、全部を信用はできないとしても非常に興味深い。しかし、ここではあまり戦線を拡大しないで、赤穂事件との関わりに限定して見ていこう。烏江と赤穂事件の接点は二つある。一つは高野貞寿であり、もう一つが細井広沢である。

(3)高野貞寿

 高野貞寿は赤埴源蔵の叔父で、討入にあたって源蔵に着込を調えてやったという(p87)。源蔵の親類書に母方の伯父「高野春東」とあるのがそれであろう。貞寿は後に改名したものか。「浪人ニて江戸罷在候」と、源蔵は記している。
 貞寿の語るところでは、源蔵の祖父(文脈から言うと赤埴十左衛門であろうが、あるいは貞寿の父・高野忠左衛門かも知れない)は大男であったのに、父(一閑)はひわず(繊弱)な生まれつきで、源蔵は祖父に似ていたとのことである。この話をしてくれた貞寿もなかなかの豪傑だったようである。
 「若い頃は愛宕の坂を足駄で駈けっくらをしたものだ」と自慢し、若い者から「危ないことを」と言われると「今時の人、役にたゝぬといふはそれなり。あぶなきと云ほどよき分別はなし。よき分別といふは、みな弱手から出るなり。・・・無分別でなければ勝はなし。」と意気軒昂(p87)。ちょっと『葉隠』を思い出すような言葉である。
 烏江は、しばしば貞寿の言を引いており、直接接触があったものと推定される。烏江が元禄7年生まれだとすれば、討入事件当時は9歳であり、貞寿と接したのはもう少し成長してからであろう。ともかくも、この豪傑老人のことを気に入ったと見える。気に入ったといって語弊があれば、影響を受けたと言ってもよい。『異説まちまち』のそこここに豪傑好きが顔を出している。

(4)細井広沢と『堀部武庸筆記』

 書の師として細井広沢を選んだのも、豪傑好きが作用したのかも知れない。太宰春台が広沢と書簡で議論した事がある。春台がさらに書状を送ろうとしたのを、師匠の荻生徂徠「広沢は虎デゴザル程に、公が輩敬て避たるがよい」と留めた(p142)。旧知(柳沢家で朋輩)の徂徠の言葉だけに、よく人物を表しているであろう。もっとも、広沢自身はあまり論争好きではなかったようで、「学問についても思うことはあるが、広沢はああ言ったこう言ったといわれるのがいやで、発言しないのだ」と語っている(p120)。

 細井広沢と赤穂事件の関わりは周知の通り。そのためか『異説まちまち』の中には事件に関連する記事が散見するが、その中でもっとも重要だと思われるのが『堀部武庸筆記』の伝来に関するものである。『異説まちまち』は『赤穂義人纂書』に抄録されているが、この記事は大分短縮されているので、あえて全文を引いておく。

 九皐咄には、大石などいへ共、専らに安兵衛とりあつかひしなり。書簡数通を大巻物にして青山に有。其節は同席へかしたりとて見ず。見るはづの約束なり。見侍らば書入べし。(割注)但し堀部留書二冊、青山より来る。(p118)

 文中「青山」とあるのは、百人組(青山組)与力だった細井広沢の住居である。割注にある「堀部留書二冊」とあるのが『堀部武庸筆記』であることは疑いあるまい。他の箇所から見て、割注は烏江自身の加筆であるらしいから、烏江は後でこの「留書」二冊を借覧することを得たのであろう。「大巻物」と「留書」の関係だが、単純にいえば「大巻物」を二冊と数えることはないだろうから、別の物と考えた方がよさそうに思われる。「大巻物」にされた書簡の方は、烏江は九皐から話を聞いただけで見ていないと理解したい。ただ「見たらば書き入れよう」とあってすぐ書き込みがあれば、同じ物だと考える見方も無視できない。あるいは、原本は「大巻物」だったが、それが焼失したため(細井家にあった元本が焼失したことは宝暦4=1754年に九皐の書いた跋文に見える)かわりに冊子になったもの(長谷川平馬書写、同じ跋文による)を見せてもらったのかも知れない。

 烏江は、青山の細井家で、弥兵衛の笄・安兵衛の籠手を見ている(p117)。弥兵衛の笄について切腹の前に形見として贈られたものであることを明記しており、安兵衛の籠手についても同様と理解できるが、「大巻物」ないし「留書」についてはどうして伝わったかは書かれていない。はっきりしないけど、よくわからないとしておく他はあるまい。「はきとしたる程さつぱりとしてよき事はなけれ共、さうならぬ事、世法にもある事なり」(p66)と烏江も言っている。

(5)むすびにかえて

 『異説まちまち』には興味深い記事が多い。
 例えば「広沢の文章は観瀾へ相談せし也」(p120)という。広沢と観瀾の深い交友関係を思えば『烈士報讐録』の理解が深まるであろう。
 烏江ははじめ佐藤直方の説になじみ、大石等の行動に批判的だったらしい。将軍・吉宗が大石を尊重すると聞いて不審だったが、河口静斎の高論を聞いて得心したという(p142)。静斎(河口光遠)の「四十七子論」は『赤穂義人纂書』に収められている。さして有名な学者でもないため、取り上げられることはまれであるが、実は結構影響力があったのかも知れない。

 こうした記事を正しく活用するためにも、烏江その人や周辺の事情について確実な知見がほしいものである。十分な考証がされていない粗雑な一文を草したのも、御批判・御示教を得たいがためである。読者よろしく諒とせられ、願わくは正しい情報を寄せられんことを。